ルシアンの青春(Lacombe Lucien):ルイ・マル

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ルイ・マルの1975年の映画「ルシアンの青春(Lacombe Lucien)」は、第二次大戦中、ドイツ占領下のフランスで、ナチスの手先となった卑劣なフランス人を描いたものである。こうした人々をフランス人は「対独協力者(Colaborateur)」と呼んで、近代史最大の恥としてきた。同じフランス人が、ドイツ人の手先となって、レジスタンス活動家をはじめ、ドイツ占領に抵抗する同国人を迫害したという事実、これはまさに民族の歴史の大いなる汚点であった。そんなこともあって、対独協力者の問題は、あまりおおっぴらに語られることはなかったし、映画で取り上げられることもなかった。フランス映画は、第二次大戦にはあまりかかわりたくないという姿勢が強かったのだが、なかでも対独協力者の問題は、腫物に触るような扱いを、戦後長い間受けていた。

そんな対独協力者の問題を、ルイ・マルが1975年になって、正面から取り上げたのは、やはり時間の作用によるものだろう。1975年ともなれば、戦後30年もたっているし、1960年代の末には、若者による異議申し立ての運動が爆発して、フランス現代史の恥部についても、タブー視されることが少なくなってきた。そうした時代背景のなかでルイ・マルは、対独協力者の問題を、なるべく客観的な目で見直したいと思ったのだろう。

主人公はルシアンという17歳の青年だ。フランスの南西部の小さな町の病院に勤めているが、退屈な毎日にうんざりしている。そこで、レジスタンスの運動に加わりたいと、学校の教員に話を持ちかける。その教員がレジスタンス運動にかかわっているということを、ルシアンは誰かから聞いたのだ。しかし教員は、ルシアンが未成年という理由で断る。そんなルシアンの前に、対独強力者たちが現れる。彼らはルシアンを誘導してレジスタンス運動の情報を引き出し、それをもとにあの教師を捕らえて拷問する。それを見てもルシアンは、良心の痛みを感じない。この青年には、人間らしい感情が欠けているといった設定になっているのである。

対独協力者たちの生態を観察したルシアンは、それを面白いと思い、自分もその片棒を担ぐようになる。対独協力者になって、ドイツの権力を背にすると、フランス人たちからは恐れられ、自分がひとかどの人間になったような気がするのだ。そのルシアンの増長振りを、ルイ・マルは淡々と描いてゆく。それを見ると、人間というものは、底なしに堕落していけるものなのだという感慨が伝わってくる。

そんなルシアンの前に、ユダヤ人の一家が現れる。この一家には美しい娘がいて、ルシアンは彼女に一目惚れする。だが娘も、その父親や祖母も、ルシアンに心を許さない。あせったルシアンは、ドイツの権力を盾にとって、力づくでこの一家を征服し、娘を自分のものにしようとかかる。父親も娘も、ルシアンを恐れて、彼の言いなりになる。ルシアンはついに、娘を自分のものにする。人を恐怖の力でねじ伏せたのだ。

ルシアンのこのような行為は、実家の隣人たちにも知られるようになり、フランスの敵と名指される。ある日、心配した母親がやってきて、息子のルシアンに何かの記念品を差し出すが、それは細長いボックスで、表面には十字架が、裏面にはハーケンクロイツと並んでルシアンの名が刻まれている。ルシアンを「フランスの敵」として烙印したものである。それを息子に手渡しながら母親は、「お前は殺されるよ」と告げる。

この頃は、連合軍がノルマンディーに上陸したばかりで、フランス各地でゲリラの活動が勢いづいていた。対独協力者の中には、ゲリラによって殺害されるものも増えてきた。仲間の対独協力者も殺された。そういう光景を見るようになって、ルシアンは自分の将来に不安を覚えるようになる。フランス人の男に後を付けられているのではないかと、フランス人を恐れるようになる。

ユダヤ人一家の父親は対独協力者の手によって強制収容所送りとなる。その護送列車をルシアンが見送る。残された娘と祖母にもゲシュタポの手が迫る。フランスでも大規模なユダヤ人狩りが始まったのだ。娘たちの家にゲシュタポが入ってきて、彼女らを連行する段になって、ルシアンはドイツ兵を射殺し、娘と祖母とともに車で逃走する。車がエンストして、彼らはスペインを目指して国境地帯を歩いてゆく。その自然のなかでの逃避行を描きながら映画は終わり、最後に次のようなメッセージが画面に現れる。「ルシアン・ラコンブは1944年10月22日に逮捕され、死刑判決を受けた後、刑を執行された」

ドイツ降伏直後、フランスの対独協力者が大量にリンチされたことは知られている。しかし、その数や処刑の実態など、詳しいことは明らかになっていない。ルシアンの場合には、裁判で死刑判決を受けたということになっているが、なかには裁判抜きで問答無用で殺された対独強力者も多い。数万人規模だと言われている。

フランス人を対独強力に駆り立てた理由は様々だったろう。この映画の中の対独協力者たちの多くは、戦前に不遇な目にあい、フランスに意趣を含んでいるということにされている。彼らの対独協力は、自分をコケにしたフランスへの意趣返しだというわけである。

ともあれこの映画は、暗いテーマを扱っていて、全編気が滅入るような場面が続くのだが、それにしては人をひきつけてやまないものがある。ルイ・マルの腕の冴えといったところか。「地下鉄のザジ」では、軽快なスラップ・スティック・コメディを展開したルイ・マルだが、この映画ではそれとは間逆の世界を描いたわけだ。







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