信長、秀吉、家康:司馬遼太郎の講談史観

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信長、秀吉、家康は、日本の近世史を飾る英雄たちである。英雄はどの民族でも敬愛を集めるもので、その活躍は壮大な物語となって、民衆の心に生き続ける。日本人も例外ではなく、源平の英雄たちの興亡は平家物語を通じて語り継がれ、南北朝の興亡は太平記によって語られた。ところがこの三人については、そうした壮大な国民的叙事詩は何故か作られなかった。彼らの活躍ぶりを伝えたのは、ささやかな語り物であり、その延長としての講談であった。名もない大勢の講談師たちが、長い時間をかけてこの三人のイメージ作りを行ってきたというのが実相で、その営みは20世紀に入ってもなお引き継がれていたと言ってよい。この三人の英雄たちをめぐる司馬遼太郎の語り口もそうした営みの一つだった。司馬は大勢の講談師たちと日本近世の歴史観を共有していたわけである。

この三人の英雄たちは、性格はそれぞれ違っていたが、なそうとした仕事の意味は共通していた、というのが講談史観の大方の見方である。その仕事の意味というのは、長かった戦国時代を終わらせ、日本を統一国家としてまとめようとすることにある。その過程の評価で、講談師たちの多くは、最後の勝者である家康に甘く、司馬の場合には信長に甘いという違いはあるが、それは大勢から見れば微々たる違いであり、大勢としては、彼らはいずれも日本統一の野望に燃えていたと見ていたと言ってよい。その野望の実現に彼らがどのようにかかわったか、それが彼らをめぐる語り物の語りどころになったわけである。

司馬が信長を最も高く評価する理由は、信長が単に日本の戦国時代を終わらせ天下を統一したばかりでなく、日本を中央集権的な統一国家にしようとしたことにある。信長はそれまでの封建体制を全面的に解体し、自分を頂点とし、その自分が直接国家を支配する体制を作ろうとした。もしその企てが実現していたら、日本はそれまでの封建国家からヨーロッパのような絶対王政を実現したかもしれない。それが実現しなかったのは、ひとつには志半ばで殺されたこともあるが、晩年になって秀吉や光秀に領地を与えたことに見られるように、その姿勢に中途半端なところがあったこともある、と司馬は考えているようだ。

信長の所業には、比叡山の焼き討ちとか石山本願寺の壊滅とか、エクセントリックなところがあるが、それも封建体制を乗り越えて中央集権国家を作ろうとする文脈からみれば合理的な行動だったということになる。信長はそれらの行為を、宗教弾圧として行ったわけではない。自分の行おうとする政策にとって、それらがたまたま邪魔をしたからに過ぎない。石山本願寺の場合には、大阪を貿易港として整備しようとする信長の意図に本願寺が強い抵抗をしたため、信長はやむを得ず必要に迫られて彼らと対峙することになった。だから本願寺が紀州に退却すると、それ以上彼らとかかわることをしなかった。信長は不必要な摩擦を避けるという合理主義的な男だった、そう司馬は思っているようだ。

秀吉は基本的には信長のコピーのような存在だった、と司馬は捉えているように見える。秀吉が行った政策の主なものは、楽市楽座の普及、検地と刀狩だったが、それらはみな信長の政策をそのまま引き継いだものだ。検地と刀狩は、中間の領主層や地侍層を没落させ、農民層を直接中央権力が支配する体制を確立しようとしてなされたものだ。楽市楽座の目的が自由市場の成立を全国規模で推進することにあり、それが全国単一市場とそれに伴う集権国家の確立を展望していたことはいうまでもない。

秀吉の行ったことのなかで、司馬が理解できないのは、朝鮮征伐だという。これは大明征伐の前段階としてなされたことで、秀吉の気宇壮大な計画の一端だったわけだが、それにしても秀吉がなぜこのようなことを行うにいたったか、司馬にはその理由が全くわからぬという。どう考えてもこれは、無茶苦茶というほかはない。家康は朝鮮征伐には終始冷ややかな姿勢をとったが、家康ならずとも、こんな妄想ともいえる無謀な行為がうまくよくとは誰も考えていなかったに違いない。

その家康に対して司馬はあまり敬意を示さない。家康のやったことは、大雑把に言えば、信長と秀吉が始めた封建制の解体を白紙にもどして、日本の封建体制を復活させたことにある、そう捉えているようである。とはいえ、司馬は徳川時代の日本の封建制に対して強い批判は行っていない。日本に中央集権体制が生まれていたら、日本の近代史はまた別の形をとったかもしれぬが、しかし徳川封建体制を前提としても、日本はなんとかうまく近代史を軌道に乗せることができた。徳川封建体制にもよいところがあったのだ、というようなスタンスを取っている。

こんなわけで、司馬の日本礼賛論は、近世史においても健在である。そうした司馬の近世史理解を講談史観というのは、信長をはじめとした英雄の立場に立って、歴史の動きを整理しようとする姿勢をさしていうのである。英雄ばかりでなく、庶民の立場に立って物事の流れを見れば、日本の近世史はまた違った相で現れるはずである。






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