吉野の桜:西行を読む

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桜といえば真っ先に吉野の名が出るほどに、吉野は桜の名所として知られる。吉野に桜が植えられたのは平安時代からだというので、西行の時代にはその最初のブームが訪れたものと思われる。その吉野の桜を西行はこよなく愛し、夥しい数の歌を読んでは、その感慨を吐露している。感慨の内容は、桜の視覚的な美しさを歌ったものよりも、それが見るものの心に訴えるものを表現したというものが多い。

吉野に桜が結びついたのは、修験道の影響があるようだ。修験道の開祖者役小角が金峰山で修行をしていると金剛蔵王菩薩が出現して励ましてくれた。そこで小角は桜樹で蔵王菩薩像を作って祀ったのだったが、それ以来桜は神樹として修験道の聖地となった吉野に植えられるようになったというのである。西行は真言宗の僧として、修験道にもかかわりがあったと思われるから、桜への関心は、美的なものと宗教的なものと、両面にわたっていたようだ。

西行は毎年のように吉野の桜を見に行ったようだ。そのことは次の歌からも伺われる。
  何となく春になりぬと聞く日より心にかかるみ吉野の花(山1062)
この歌には、「春立つ日よみける」という詞書がついているから、西行が立春を向かえるとともに吉野の桜で頭がいっぱいになったということを語っている。恐らく毎年春になると吉野に桜を見に出かけるのが慣わしだったのだろう。

西行は久安五年(1149、32歳)頃高野山に入り、その後三十年ばかりの間高野山を拠点にしていた。高野山と吉野は近いので、桜の花を見に出かけるのはそう面倒なことではない。だから毎年春になると吉野に出かけるのは、遊山と修行を兼ねた習慣のようなものだったのかもしれない。そんな年毎の吉野行きがうかがわれる歌がある。
  吉野山こぞのしをりの道かへてまだ見ぬかたの花をたづねむ(新古86)
これは、去年とは違う道を通って、まだ見たことのない桜の花を見ようという意味だ。年毎にたどる道を変えたりして、なるべく広範囲に桜を見て歩こうという気持ちが込められている。

西行は吉野の山に庵を結び三年ほどそこで修行したと伝えられている。西行の結んだ庵は奥千本にあったというが、普段は人のいないこの地にも、春になると大勢の人がやってきた。桜につられてである。その様子を西行は次のように読んでいる。   
  花見にとむれつつ人の来るのみぞあたらさくらの咎には有ける(山87)
俗人がやってきて修行の邪魔をされるのは困るが、これも桜が呼び寄せたのだと思えば我慢しようという趣旨である。桜に魅せられた西行だからこそ、同じ桜を愛する人々に寛容になれたのだろう。

吉野の桜に寄せた感慨を歌ったものとしては、次の二首があげられよう。
  吉野山梢の花を見し日より心は身にも添はず成にき(山66)
  あくがるる心はさてもやまざくら散りなんのちや身に帰るべき(山67)
一首目は、吉野の山の桜を見ると、心が身から遊離してしまったが、それは心が桜の精霊と一体化したからだという趣旨だろう。二首目は、この遊離した心は桜の花が散ったあとで戻ってくるのかと自問している。ここで心が身から離れるといっているのは、単に比ゆ的な表現ではなく、本当にそうなのであり、それは桜の精霊のなせるわざなのだという西行の信念が感じられる。






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