高齢者は75歳以上:老人の概念が変わる

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高齢者について世界共通の厳密な定義があるわけではないが、いまの日本では一応65歳以上ということになっている。老人福祉の法体系は、65歳以上を高齢者として定義しているし、実際の社会生活においても、65歳以上の人を、本人も他人も高齢者として自任し遇している。筆者は今現在68歳であるが、こうした社会通念に従う形で自分自身を高齢者として認識しているし、他人も筆者を高齢者として遇してくれる。

ところが驚いたことに、というのも筆者自身が高齢者の当事者として驚いたということだが、この高齢者の定義を改めて、75歳以上を高齢者として定義しなおそうという動きが、ほかならぬ高齢者問題の当事者である日本老年学会などが提案しているというのだ。この新しい定義によれば、筆者はまだ高齢者ではなくなるわけだ。では何になるのかといえば、准高齢者になるというのだ。日本老年学会によれば、准高齢者とは高齢者にならんとする人を指すのだという。つまり筆者は高齢者としてのあり方から、高齢者にならんとするあり方へと、生き方の相を変えることを迫られるわけだ。

高齢者の定義を75歳以上に高めることについて、日本老年学会等は、その理由を説明して、日本人は昔と比較して加齢にともなう衰えが遅くなり、5年から10年程度「若返っている」ことをあげている。たしかに65歳以上の高齢者には、いまだにセックスを楽しみ、挙句には子どもを作ったりする人もいる。しかしそういう人は昔でもいたわけで、そういう人たちが現在多くいることを根拠に、日本人全体が、75歳まで若くあるというのは乱暴ではないか。いまの日本人の多くは、65歳にして、外見上も内面的にも、老人の風格を備えている人たちなのではないか。

日本老年学会がなぜこんな提案を唐突にしたのか。こうした提案をするについては色々な力学が働いたのだと思うが、まさか日本人を75歳まで働かせるための理屈付けではないのか、そう勘繰りたくなるのは筆者のみではあるまい。筆者のように、65歳で現役を引退して、今は悠々自適に生きているものは、老人である自分には隠居する十分な根拠があるのだという確信があるから、隠居生活を送れているのであって、その確信が揺るがされることがあっては、生きづらくなろうというものだ。

こんなことを日本老年学会が提案せざるを得なくなったのも、たしかに日本に老人が溢れるようになったからだろう。老人の割合が高まった故に、昔のように老人という概念で十把一絡で括る事が出来なくなり、年齢を細分化して、それぞれ段階ごとに命名してきた。65歳以上が老人、75歳以上が後期高齢者といった具合で、これは非公式の命名だが、85歳以上を末期高齢者、100才以上を死に損ないということもあるようだ。それに日本老年学会の新しい定義が加わるとどんなことになるのか。

これは笑い話ではない。高齢化が加速する国の笑えない話である。




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