事実は、あったか、なかったか、そのどちらかだ

| コメント(0)
いわゆる森友事件を巡って、森友の理事長が現職の総理大臣から、その妻を通じて100万円の寄付を受けたと証言したことについて、当該総理大臣はこれに強く反発し、「これだけ多額の寄付を私が行うことはあり得ない」と否定したそうだ。しかし事実を否定するのなら、単に「なかった」といえばすむことだ。それをわざわざ「あり得ない」というのは、聞く者の耳に異様に聞こえるのではないか。

その寄付を媒介したと名指しされた当該総理大臣の妻のほうは、そのようなことは記憶にございませんと言ったそうだ。これも自分にかかわる事実を否定したいなら、単に「なかった」といえばすむことだ。それを記憶にないというのは、そもそもなかったものだから記憶にないのか、それともあったかもしれないが記憶にないのか、どちらとも解釈のしようがない。

聞く者がこのように感じるのは、事実というものは、たしかに記憶と係わりのある部分もあるが、基本的には、「あった」か「なかった」か、そのどちらかであるからだ。このケースの場合には、一年半前の出来事が問題となっているわけだから、またその出来事の舞台となった場は総理大臣の妻と森友の理事長との間でかなり親密なやりとりがあったと思われるところから、その場の記憶、しかもかなり重大な事実を巡る記憶が無くなったというのは、小説の世界ならともかく、現実の世界ではほとんどありえないことだろう。

それ故、あらぬ嫌疑をかけられていると思うなら、その嫌疑のもととなった事実を断固否定すべきなのである。否定するのはむつかしいことではないし、また証拠を示す必要もない。事実がなかったのに「あった」というためには、それを主張する人がその証拠を示す責任がある。だから堂々と「なかった」といえばすむのである。





コメントする

アーカイブ