待賢門院の死:西行を読む

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待賢門院は、久安元年(1145)の八月に四十五歳で死んだ。その時西行は二十八歳であった。女院はその三年前に落飾して宝金剛院に住むようになっていたが、死んだのは三条高倉第であった。二年前に疱瘡を患ったのがもとで病気がちとなり、養生のために三条高倉の本邸に移り住んだのだろう。この年に入ると俄に病状が悪化し、鳥羽天皇がたびたび見舞ったにかかわらず、その数奇な生涯を閉じたのだった。

女院の死を西行が見舞ったという証拠はない。また、その死を直接嘆いた歌も残っていない。女院に対する西行の特別な思いを考えると、これは奇異に映る。ただ一つ残っているのは、死の翌年に、三条高倉第で女院の喪に服していた女房たちに、見舞いの歌を贈ったとする山家集の記事だ。
「待賢門院隠れさせおはしましにける御跡に、人々またの年の御果てまで候はれけるに、南面の花散りける頃、堀川の局のもとへ申送りける
  尋ぬとも風のつてにも聞かじかし花と散りにし君が行へを(山779)
花と散った女院の行方をいくら尋ねても、風の便りに聞くことも出来ない、と哀悼の気持を述べたものだ。これにたいして堀河の局は次の返歌をよこした
  吹く風の行へ知らするものならば花と散るにも遅れざらまし(山780)
吹く風が女院の行方を教えてくれるならば、花と散った女院のあとを追ってゆくものを、という趣旨である。

堀河の局は、数いた女院の侍女のなかでももっとも年配で、西行よりは二十歳ほど年上だった。歌の心得があり、千載和歌集を初めとした勅撰集に六十首以上取り上げられている。小倉百人一首にも次の歌が入っている。
  長からむ心も知らず黒髪の乱れて今朝はものをこそ思へ
この歌からは、堀河の局が多情だったことがうかがえる。その多情さが、同じく多情多感な女院と深い縁を結ばせたのだろう。

女院の死後堀河の局は尼になって仁和寺に住んだ。女院の御子たる覚性法親王の計らいだと思われる。その仁和寺の局のもとに、あるとき西行が歌を贈った。
「堀河の局仁和寺に住みけるに、まゐるべきよし申たりけれども、まぎるることありて程経にけり、月の比前を過ぎけるを聞きて、言ひおくりける
  西へ行くしるべと頼む月影の空頼めこそかひなかりけれ(山853)
「西へ行く」に西方浄土と自分自身の西行をかけている、その自分の導き手と頼んでいたあなたが、わたしの家の前を通り過ぎたというので、私の期待は空頼みだったと思い知りました、そう非難している歌である。これに対する局の返歌
  さし入らで雲路をよきし月影は待たぬ心ぞ空に見えける(山854)
あなたの家に入らずに通り過ぎたのは、あなたが私を待ってなどいないと思ったからですよ、という趣旨である。相手の非難に対して遊び心で答えているわけである。

堀河の局のほか、女院の侍女だった人たちの何人かと西行は歌のやりとりをしている。そのうちの一人中納言の局に対しては次の歌がある。
「待賢門院中納言の局、世を背きて小倉山の麓に住まれける頃、まかりたりけるに、事柄まことに幽に哀れなりけり。風のけしきさへことに悲しかりければ、書きつけける
  山おろす嵐の音のはげしさを何時ならひける君がすみかぞ(山746)
嵐は嵐山をかけてもいる。その嵐山に吹く風のように厳しい暮らしぶりを、あなたはなされているのですね、と同情しているのである。

またあるとき、宝金剛院を尋ねたところ、そこに上西門院がいると聞いて、侍女の兵衛の局を介して歌を奉った。
「十月なかのころ、宝金剛院の紅葉見けるに、上西門院おはします由ききて、待賢門院の御時思ひ出でられて、兵衛殿の局にさしおかせける
  紅葉みて君がたもとや時雨るらんむかしの秋の色をしたひて(山797)
かへし
  色深き梢をみても時雨つつ旧にし事を懸けぬ日ぞなき(山798)
兵衛の局は堀河の局の妹で、やはり待賢門院の侍女だったのだが、女院の死後、その御子である上西門院の侍女となって仕えたのであった。






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