白隠の禅画

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白隠は徳川時代の中期に生きた禅僧である。貞享二年(1685)現在の静岡県沼津市に生まれ、明和五年(1768)に八十四歳で死んだ。若い頃から信仰心が厚く、三十二歳頃に沼津の禅寺松陰寺の住職となり、生涯その職にとどまった。しかし、その法名は日本中にとどろき、臨済宗中興の祖と称された。現在の日本の臨済宗はすべて、白隠の法統を受け継ぐとされる。

要するに白隠は禅僧であって、専門の画家ではなかった。にもかかわらず彼の作品は、芸術的な評価も高く、禅が国際化したいまでは、白隠の絵も禅画として世界中にもてはやされている。達磨像を初め、ダイナミックな筆致で描かれた絵が、独特の迫力を見るものに感じさせるからだろう。

白隠はこれらの絵を、趣味として描いたわけではなく、また芸術作品として描いたわけでもない。絵のほとんどすべてに仏教の教えを思わせる賛が付されていることからわかるように、白隠はこれらを教化の手段として描いた。白隠の絵が禅画と呼ばれるのは、彼の絵が禅の境地を伝えることを目的に描かれた、宗教的な背景をもつことからきている。

今日白隠の絵として伝わっているものは膨大な数に上る。おそらく一万を越えるだろうと推測される。その他消失したものもあるだろうから、白隠が生涯に作成した禅画の数は、二万にも及ぶのではないかと推測される。この膨大な数の絵のほとんどは、中年以降になって描かれ、その大部分は高齢になってからのものだ。そのエネルギーたるやすさまじいものだが、これも教化のために行ったのだと受け取れば、不自然なことではない。

白隠はほとんどすべての絵を、人の求めに応じて描いたのだと思う。それらは、相手の知的能力や宗教的な背景に応じて、さまざまなバリエーションを以て描かれた。僧侶仲間から求められたときには、それなりに深い宗教的な気持を籠めただろうし、相手が教養のない庶民であるときには、漫画のようなタッチでわかりやすく描いた。白隠の作品がバラエティに富んでいるのは、そうした背景によるのであろう。

白隠と言えば達磨像が有名だ。この達磨像は白隠自身の自画像だと推測されている。上に白隠晩年の自画像を添付したが、それを見るとぎょろりとした目とか、精悍な雰囲気が達磨像と重なる。達磨像ばかりではなく、たとえば鍾馗など他の作品にも、白隠は自画像を絵の中に取り入れた。それ故白隠は自画像作家といっても間違いではない。日本の近代以前の絵描きで自画像に拘った絵描きは、雪舟など多少はいるが、自分の顔を達磨像に重ねるというアイデアは、絶えて見られないのではないか。

下の絵は、他の人間が作った白隠の木像で、白隠生前の面影をよく伝えていると言われる。この木像にも、ギョロ目で精悍な風体の白隠の面影が感じられる。

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当サイトでは、膨大な白隠の作品から代表的なものを、ジャンルごとに紹介したい。ジャンルと言うのは描かれた対象の区別というくらいの意味である。その際に、賛の読み方だとか絵の解釈について、白隠研究家の芳澤勝弘氏の本(「白隠―禅画の世界」中公新書など)を参考にさせてもらった。





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