和辻哲郎「日本精神史研究」

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「日本精神史研究」に収められた諸論文は、1920年代の前半、和辻の比較的若い頃の業績である。キルケゴールやニーチェなど、ヨーロッパの当時の最新思想の紹介者として出発した和辻が、日本の精神的な伝統について考察したもので、いわば日本文化研究家としての和辻の、処女作品のようなものである。多くの思想家の処女作品が、その後の彼の思想を要約しているように、この書物に収められた作品群は、和辻のナショナリストとしての姿勢を宣言しているようなところがある。

この書物に収められている論文は、「飛鳥寧楽時代の政治的理想」に始まり、「沙門道元」にいたる十一篇で、一見すると雑多な主題を集めているように思えるが、よく見ると、和辻なりに筋の通った問題意識を共有している。それは日本文化の独自性ということだ。しかもその独自性は、単にシナや西洋との相違というにとどまらず、日本文化が世界的にもつ優位性のようなものを含意したものだ。そこに読者は、和辻のナショナリストとしての矜持を見ることができるわけである。

十一篇の論文を大雑把に分類すると、奈良時代以前における古代日本人の仏教受容の特徴について論じたもの、平安時代における日本人の美意識を論じたもの、鎌倉時代における日本人の宗教意識の確立について論じたもの、この三つに分けられるであろう。最初の数編は第一の問題意識に応え、枕の草紙や源氏物語を論じたものは第二の問題意識に答え、「沙門道元」は第三の問題意識に答えている。この三つの問題領域のすべてを通じて、和辻は日本的なものとはなにか、それはどこに淵源するのか、という問いに答えようとしているわけである。

日本的なものとはなにか、を論じようとする場合、日本という言葉でさしていることがらが何を意味するのか、あらかじめ明らかにしておくことが、学問を標榜するものの良心というべきだろう。和辻もその良心に従って、自分なりの日本観を提示している。それによれば、我々日本人の祖先たちは、古代の一時期に一つの国家を作り上げ、その国家を基盤として自分たちのアイデンティティ(それは国民性と言い換えることができる)を築き上げてきた。したがって、日本人というものは歴史の初めから、国家を前提として生きてきたのであって、その意味では極めて政治的な民族であった、ということに(和辻に従えば)なる。

しかして和辻がいう古代の日本国家とは、支配・被支配関係とは全く異なった、いわば君民一致の予定調和的な共同体であった。その予定調和を支えていたのは、祭政一致的な政治であり、祭事と政治とが不可分に結びつくことで、君主と民衆は同じ理想を共有する共同体の成員として、利害をともにしていた。そうした共同体のありようを和辻は、ある種の社会主義社会だと言っている(原始共産主義社会とは言わない)。

「祭事という言葉自身が示しているように、宗教と政治とは別のものではない。また統率されることが民衆自身の要求であったかがゆえに、統率者と被統率者との対抗もない。君民一致は字義通りの事実だったのである」(「飛鳥寧楽時代の政治的理想」)。このように断定する和辻の思考には、それに必要な論証がかならずしも伴っていないのだが、和辻のこうした思考の背景に、当時日本の思想界を席巻していた階級史観への和辻の反感があったことは察せられる。日本はそもそもの始めから階級対立とは無縁の国家だったのであり、いまでも天皇制のもとで天皇と臣下とが同じ目的を共有する予定調和的な理想の国体なのだ、と言いたいわけであろう。

こうして成立した古代の日本国家がまず取りくんだのは仏教の受容であった、と和辻は見ている。仏教を受容することで、日本人は文明的な国民になったというわけである。このように、日本国家の出発を仏教との関連でみてゆくのは、和辻の面白いところで、そのへんは彼の合理的な精神が現われているところだと思う。日本のナショナリストは、どちらかというと仏教嫌いで、日本人の精神的な伝統を神道との関連で見る傾向が強い。和辻がこの本の諸論文を書いたのが大正時代のことであり、その当時の自由主義的な雰囲気を考慮に入れても、ナショナリスト的な言説を仏教的な文脈で展開するというのは、多少奇異な印象を与えるところだ。

和辻のナショナリストとしての面目は、古代日本人の仏教受容が、シナの模倣であったとする津田左右吉への反論に現われている。津田によれば、日本の仏教文化は、シナのそれをストレートに模倣したものであって、推古時代の仏教文化は六朝時代のそれの模倣であり、白鳳・天平時代の仏教文化は唐のそれの模倣であった。したがってそこに、日本人としての独自性は見られぬし、推古時代と白鳳・天平時代との間の内在的な相互関係も見られない(それぞれに断絶している)とした。これに対して和辻は、推古時代の仏教も、白鳳・天平時代の仏教も、それぞれ日本人の内在的な関心から生まれたものであって、どちらも日本人の精神文化を反映しているということで連続性があるのだと反論した。

和辻によれば、「仏教の最初の受容が単に外来のものの盲目的な受容ではなくして、日本人の側における順当な精神開展の一段階であったことは認めなくてはならぬ」(「推古時代における仏教受容の仕方について」)ということになる。シナと日本との間に、津田がいうような相関が認められるとしても、それは「シナの美術の直模ではなくして、シナと同じき文化圏にあった日本人の創作なのである」。要するに、東アジア全体としてある共通の文化圏というものがあって、その中でシナと日本とがそれぞれ独立に、文化の華を咲かせたわけである。それらが共通した要素をもっていることは、同じ東アジアの文化圏にあることからすれば、当然なのだということになる。

以上は、単に仏教について言えるばかりではない。政治的な理想についても同じだ、として和辻は「十七条憲法」について次のように言う。「我々は現代においてもそのまま通用するごとき『十七条憲法』の光輝ある道徳的訓戒を、単にシナの模倣とする歴史家の解釈に同ずることができない」(「飛鳥寧楽時代の政治的理想」)。「十七条憲法」が現代にもそのまま通用する道徳的訓戒であるかどうか、それはここでは問題にしないが、和辻がナショナスティックたらんとするあまり、かなり復古主義的になっていることは伝わってくる。

ともあれ、日本精神が最初に独自に現われたとする推古仏について、和辻はその特徴をどうとらえていたか。和辻は仏像について、それが人体の理想化であるとしたうえで、「その理想化は、ギリシャの神像においては人体の聖化を意味しているが、仏像においては『仏』という理念の人体化を意味している」(「仏像の相好についての一考察)と言っている。しからばその理念の人体化は、推古仏の場合どのように行われたか。和辻は、嬰児という形をとって理想化されたと言う。そう言った上で和辻は、推古仏の相好と人間の嬰児のそれとがいかに似ているかについて云々するのであるが、嬰児が人体の理想化された究極の形なのだとする言明について、その根拠らしきものの論証はない。あるのは和辻なりの直感だけである。だからその直感に同感できるものは、和辻の説に同意できるだろうし、直感できないものは、荒唐無稽だとの印象を受けることになるだろう。






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