東日本大震災:村上春樹「騎士団長殺し」

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「騎士団長殺し」の最終章は、妻と縒りを戻した私の数年後のことを描いている。その数年後の三月十一日、私は「東日本一帯に大きな地震が起った」ことをテレビニュースで知って、ショックを受ける。そのショックは数年前に私がそのあたりをプジョー205に乗って、あてもなく旅していた記憶を呼び覚ます。

「それらの地域を旅してまわっていたとき、私は決して幸福ではなかった。どこまでも孤独で、切ない割り切れない思いを身のうちに抱えていた。多くの意味あいにおいて、私は失われていたと思う・・・それらの場所を通り過ぎたあとでは、私はそのまえと少しだけ違う人間になっていた」

私に小説の最後でこのように回想させることで、この小説の最初の部分でなぜ村上が私に、ほかでもない東日本一帯を旅させたのか、その理由が納得される。村上は、あの東日本大震災のことを、何らかの形でこの小説の中に取り入れたいと考えて、まずその伏線として私に東日本一帯を、プジョー205に乗っての孤独な旅をさせたのだろう。

歴史的な大事件を、小説の中で取り上げた例は多くある。20世紀に限っても、トーマス・マンは「魔の山」の中で第一次世界大戦を取り上げたし、へミグウェーは「誰がために鐘は鳴る」の中でスペイン内戦を取り上げた。村上もそうした先人たちにならって、同時代に経験した歴史的な事件を取り上げたいと考えたのだろう。実際彼は、神戸大震災についても、いくつかの短編小説の中で取り上げている。村上はまた、同時代の事件のほか、歴史的な事件についてたびたび小説の中で触れている。彼は、人並み以上に歴史意識が強いように思われる。

東日本大震災の報道に接しての私のとりあえずの反応は次のようなものだった。「何をすることもできず、言葉を失ったまま、私はテレビの画面を何日もただ眺めていた。テレビの前を離れることができなかった。私はその画面の中から、自分の記憶に結びつく光景をひとつでもいいから見つけ出したいと願った。そうしなければ、自分の中にある何か大事な蓄積が、どこか知らない遠いところに運ばれていって、そのまま消滅してしまいそうな気がした」

私が思い出したのは、白いスバル・フォレスターに乗っていた不思議な男のことだとか、(見知らぬ女と一夜を過ごした)ラブ・ホテルやファミリー・レストランのことだった。スバル・フォレスターの男は、テレビニュースの中でちらりとその姿を見たようにも思ったが、その男らしい映像はすぐに消えてしまった。私が何故、このスバル・フォレスターの男にそんなにこだわるのか、文章の字面からは伝わってこない。スバル・フォレスターの男を含めて自分の潜り抜けてきた過去の記憶の蓄積を、この大きな災害が消滅させてしまうことが、私には苦痛だったと作者は言うのみである。

この白いスバル・フォレスターの男を描いた絵を、私は友人の小田原の家の屋根裏に隠してきたのだが、その家が地震発生の二ヵ月後に焼けてしまった。そのことで、雨田具彦の作品「騎士団長殺し」とともに、私のその絵も失われてしまった。つまり、私を東日本の旅とつなげる手がかりがすべて失われてしまったということだ。このことで村上が何を言おうとしたのか、よくはわからない。小説に一定の始末をつけるために、「騎士団長殺し」の絵を失わせるという措置をとったのか。そしてそのことの反射的な効果として私の描いた白いスバル・フォレスターの男の絵も失われてしまったのか。

村上はしかし、その白いスバル・フォレスターの男を、私が再び描くことになるだろうと暗示している。その暗示は当然この小説の中では実現しないから、別な形での実現を、村上はねらっているのかもしれない。

こう見てくると、東日本大震災についての村上のこの小説でのこだわりは、そんなに強いようには見えない。さらりと触れているといった感じに受け取れる。もっとも、トーマス・マンの場合だって、第一次世界大戦の勃発に、さらりと触れているだけだ。もっともその触れ方が非常に印象的であるために、小説全体を引き締める効果をもたらしてはいる。それに比べれば、村上のやり方はどうだろうか。

たしかに、この大震災の経験が、私をなにがしかの程度で変えたというようなニュアンスのことは書いている。この経験に代表されるような私のそれまでの経験の蓄積が、私を新しい私に向かって歩み出させる。その経験を共にした様々の人物、それは騎士団長殺しの絵に出てきたキャラクターであったり、東日本で出会った白いスバル・フォレスターの男であったりするわけだが、「私はおそらく彼らと共に、これからの人生を生きていくことになるだろう。そしてむろ(子どもの名)は、その私の小さな娘は、彼らから手渡された贈り物なのだ。恩寵のひとつのかたちとして。そんな気がしてならない」

そう私に言わせることでこの小説は閉じられるわけだが、村上にしてはいささかゆるい終わり方と言えなくもない。






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