宮河歌合:西行を読む

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西行が藤原定家に「宮河歌合」の判を乞うたのは、「御裳濯川歌合」の判を俊成に乞うとのとほぼ同じ時期のことと思われる。俊成は西行より年上で、自分の寿命を考慮したか、すぐに判を加えて送り返してきたが、定家のほうは二年以上たってやっと送ってきた。遅れた理由を定家は、歌合三十六番の判に添えたあとがきのようなものの中で、次のように書いている。

「神風宮河の歌合、勝負を記し付くべきよし侍りし事は、玉くしげ二年余りにも成りぬれど、隠れては道を守る神の深く見そなはさむ事を恐れ、顕れては家に伝はる言葉に浅き色を見えん事を包むのみにあらず、わづかに三十字余を連ぬれど、六つの姿の趣をも知らず・・・いづれをとしあしといひ、いかなるを深し浅しと思量るべしとは、誰に従ひて何をまことと知るべきにもあらず・・・今聞き後見ん人の嘲りをも知らず、昔を仰ぎ古きをしのぶ心ひとつにまかせて、書付侍りぬるになん」

つまり、自分は若輩の身で、この仕事に気後れがして、こんなにも時間がかかってしまったのだと言っているわけである。定家がこの仕事を完成したのは若干二十八歳のときのことだから、彼の謙遜は不自然ではない。しかし弱冠ながら和歌の道にかけてはすぐれた才能を示し、それを西行も認めたからこそ、自歌合の加判を依頼したのだろう。定家は西行より四十四歳も年下であったが、その年齢差に拘ることなく、いわば指導を仰ぐようなことをしたのには、年齢に拘らない西行の闊達な人柄が反映しているともいえよう。

ともあれ西行は、定家の加判を大いに喜び、早速感謝の書状を送った。「贈定家卿文」と呼ばれるものである。その中で西行は、「先づ御神の御使として嬉しと思ひ候ば三辺、見候はぬ人々に三度読みて、おろおろ聞き候。猶ゆるぎ候へば、手づから頭をもたげ候て、休む休む二日に見はて候ぬ」と書いている。西行の感激ぶりが伝わってくるところである。あたかも病床に臥し、己の死期を予感していただろう西行にとっては、よほど嬉しかったにちがいない。

歌合の体裁は、「御裳濯川歌合」と同様である。三十六対計七十二首の歌からなり、それを左右にわけ、左側を玉津島海人、右側を三輪山老翁が詠んだと擬制している。神話的な雰囲気を感じさせる命名は、この歌合が「御裳濯川歌合」同様、伊勢神宮に奉納されることを前提にしたものだろう。

歌合前半の題は、四季と花鳥風月を詠ったものが多い。後半は四季の移ろいにことよせて、己の心の中の風景を詠んだものが現れる。そうしたものの中から、第九番を取り上げてみよう
    左勝
  世中を思へばなべて散る花の我身をさてもいづちかもせん
    右
  花さへに世をうき草に成りにけり散るを惜しめばさそふ山水
    右歌、心詞にあらはれて、姿もをかしう見え侍れば、山水の花の
    色、心もさそはれ侍れど、左歌、世中を思へばなべてといへるよ
    り終りの区の末まで、句ごとに思ひ入て、作者の心深く悩ませる
    所侍れば、いかにも勝侍らん
この言葉に西行はいたく感動したらしく、次のように書き送っている。
「この御判の中にとりて、九番の左の、わが身をさてもといふ歌の判の御詞に、作者の心深くなやませる所侍ればと書かれ候。かへすがへすもおもしろく候かな。なやませるといふ御詞に、よろづ皆こもりめでたく覚え候。これ新しく出でき候ぬる判の御詞にてこそ候らめ。古はいと覚え候はねば、歌の姿に似て云ひくだされたるやうに覚え候。一々に申しあげて見参に承らまほしく候ものかな」。こう書いた上で西行は、「若し命生きて候はば、必ずわざと急ぎ参り候べし」と付け加えている。西行の感激がいかに大きかったか、よく伺われるところである。

最後の三十六番は、次のとおりである。
    左持
  逢ふと見しその夜の夢の覚めであれな長き睡は憂かるべけれど
    右
  哀々此世はよしもさもあらばあれ来む世もかくや苦しかるべき
    両首の歌、心共に深く、詞及びがたきさまには見え侍るを、右、
    此世と置き、来む世といへる、偏風情を先として、詞をいたは
    らずは見え侍れど、かやうの難は此歌合に取てはすべてあるまじ
    き事に侍れば、准へて又持とや申すべからん
両首とも、この世に生きることの辛さと、あの世への不安な気持を歌っている。僧としての西行、しかもまもなく入寂を迎えようとしている人の歌としては、未練を感じさせるものだ。そこのところが定家にはめめしく映ったのだろう。右の歌は非常にすぐれたものだが、こうした場の歌としては相応しくないと言っているわけである。






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