俵屋宗達の世界

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俵屋宗達は、今日では琳派の開祖として知られている。しかし宗達自身にはそのような意識のありようがなかった。琳派というのは、元禄時代を中心に活躍した緒方光琳とその弟子たちにつけられた名称であり、徳川時代の中期には酒井芳一のような有力な後継者が出て、日本の絵画史上の一大流派となったわけだが、宗達は光琳よりずっと前の世代の画家であるからして、後代の流派の名で宗達を呼ぶのは、宗達自身にとって不本意だと思われる。せめて琳派の先駆者ぐらいの位置づけにしておくべきだろう。

その宗達であるが、生年も没年も特定されていないほど、その生涯には不明なところが多い。いまのところわかっているのは、①慶長七年(1602)の平家納経復元事業に携わったのが、画家としての本格的なデビューを飾るらしいこと、その時点での宗達の年齢が、30歳前後と推測されることから、比較的若いころに、公家社会において一人前の絵師として認められていたこと、②俵屋という姓は、宗達の職業上の屋号で、宗達はこれを祖先から受け継いだらしいこと、③寛永七年(1630)ごろには法橋の位につき、日本の画壇で長老的な存在に出世したこと、④そして寛永年間の末ごろに死んだらしいということなどである。

この大雑把な年譜からうかがわれるように、宗達は家業の絵師を継いだのであって、日本の伝統的な絵の流派とはあまり関係がなく、そういう点では、日本の美術史上かなりユニークな存在だということになる。そしてそのユニークさは、金銀泥絵という技法を基盤としていた。この技法はやまと絵の伝統につながる面があるものの、俵屋という絵師の家業に基盤を有しているということに根差している。京都の一町絵師の技法であったものが、宗達という偉大な才能を通じて、日本の絵画の歴史に新しい流れを生んだのだということができる。宗達のこうした業績の上にたって、琳派が成立できたのだと思う。

画家としての宗達の歩みを大きく区分すると、①平家納経の復元に始まり、家業の金銀泥絵の技法を模索した時代。この時代には、本阿弥光悦とのコラボレーションも含まれる。宗達と光悦との関係は、親戚同士だとする見方もあるが、異説もある。ともあれ、宗達の下絵に光悦が書を重ねて、優雅な巻物などを制作するというような共同関係に二人はあった。宗達初期の傑作「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」はその記念碑的な作品である。②中期には、「蓮池水禽図」に代表される水墨画と、水墨画風の金銀泥絵などを描いている。③そして、寛永七年ごろに法橋の位についた以降が後期といえるが、この時代にこそ宗達は、日本美術史上有数の傑作たる「風神雷神図」をはじめ、襖絵の大作をいくつも生み出している。

宗達は生涯を通じて金銀泥絵の技法を用いて描き続けたと言ってよい。要するに家業から出発しながら、家業の技法を洗練して、それを日本画のなかの太い流れとして確立したと言える。これを一口で言えば、装飾画の世界を追求したと言ってよい。その装飾的な要素が、光琳以下に引き継がれて、琳派という形に結晶したと言えるわけである。

ここでは、宗達の業績のうち、比較的世に知られている作品を中心に鑑賞したいと思う。






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国宝展にて俵屋宗達のものを初めて見ました。元祖風神雷神の作者を尊重して俵屋宗達に一票な思いの私。後に続く二人の画との違いはわかりません。好きな食物に例えたら草餅が宗達で光琳はおしゃれなショートケーキ酒井抱一はアップルパイあたり。奥が深くて。

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