坂口安吾「桜の森の満開の下」

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「桜の森の満開の下」は、坂口安吾の小説の代表作といってよい。短編ながら、坂口らしさがふんだんに盛られている。筋書きもユニークだし、文の運びも軽快だ。それでいて幻想的な雰囲気を存分に醸し出している。こういう幻想的な世界は、上田秋成以外には絶えて描ける人がいなかったもので、そういう点では坂口は、非常に珍しいタイプの作家といってよい。

テーマは桜の花が人を狂わせるというものである。なぜ桜の花が人を狂わせるのか、その理由は小説を最後まで読んでもわからない。大体日本人にとっての桜の花は、人の気分を浮き浮きさせるものであって、人の気分を滅入らせるものではないし、まして人を狂わせるものでもない。日本人の歴史には西行のような変わった人間もあって、桜の花に神秘さを感じたり、できれば桜の花の下で死にたいなどと言ったりもしたが、そんな西行でも桜の花に狂ったといったことはなかった。それが坂口のこの小説では、桜の花が人を狂わせるのである。

小説の中で桜の花に狂うのは、西行のような風雅を愛する人間ではなく、そもそも風雅とはもっとも縁遠い山賊である。その山賊は、人間というより山猿というに近く、およそ人間らしい感情を持っていないものとして描かれている。その山猿のような奴が、なぜか桜の花に恐れのようなものを感じるのである。その恐れが最後には山賊の身を亡ぼすというのがこの小説のミソだ。

この小説には、桜の花のほかにもう一つ妖しい要素が出てくる。女である。その女は亭主とともに鈴鹿の山の中を歩いているところを山賊に襲われ、亭主を殺された上に、山賊の妾にされる。ところがこの女はか弱い犠牲者であるどころか、山賊さえたぶらかすような夜叉の如き存在として描かれる。この女の快楽は、人間の生首をもてあそぶというもので、常に新鮮な生首を用意するよう山賊に命じるのだ。命じられた山賊は、毎日のように人間を襲っては、その生首を女のもとに運んでくる。この山賊は、どういうわけか、女の要求することには逆らえないのだ。おそらく女の魔力にとらわれたせいだろう。

小説は、この女の魔力と桜の花の妖気とが、山賊をめぐってせめぎあう過程を描き出すのだ。そのあげく桜の花の妖気が女の魔力に打ち勝って、女は鬼としての正体を現わしたうえで死んでしまうし、最後には死体がことごとく分解して、桜の花びらに変わってしまうのだ。この小説の最後は、次のように締めくくられている。

「彼は女の顔の上の花びらをとってやろうとしました。彼の手が女の顔にとどこうとした時に、何か変わったことが起こったように思われました。すると、彼の手の下には振りつもった花びらばかりで、女の姿は掻き消えてただいくつかの花びらになっていました。そしてその花びらを掻き分けようとした彼の手も彼の体も、延した時にはもはや消えていました。あとに花びらと、つめたい虚空がはりつめているばかりでした」

このように、この小説の怖いところは、桜の花が人間の姿をとった鬼を亡ぼすだけでなく、その鬼に取りつかれていた人間まで亡ぼすところにある。桜の花は、人間にとって無条件に危険で恐ろしいものだという感覚が、この小説には支配しているのだ。

ところで重ねていうが、桜の花をこのようにとらえる感性は、坂口以前の日本人にはなかったし、坂口以後の日本人にもない。すくなくとも現代の日本人は、桜の花の下で宴会をして騒ぐことはあっても、桜の花が怖いといって恐れるものはいない。ということは、坂口が桜の花が怖いといってこの小説を書いたのは、特殊な時代が強いた特殊な感覚の現われであったのだろうか。

坂口が壮年を生きた時代は、人の命の価値が最小限に扱われた時代であって、人の命のはかなさを、桜の花にたとえる流儀がはやっていた時代であった。






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