能「草紙洗」

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NHKのEテレが能楽の紹介に手を抜くようになってからも、正月三が日は放送していたものが、昨年は二日に短縮され、今年はついに元旦だけになってしまった。その今年の元旦の出し物は「草紙洗小町」だった。宝生流の能なので、「草紙洗」となる。能に数多くある小町物の一つだ。小町物はなかなかバラエティに富んでいるのだが、これは宮中の歌合せでの、相手のあくどい策略を見抜くというもので、小町は歌の名手と言うよりは、智慧に優れた人として描かれている。小町物としてはめずらしい作品だ。

宮中の歌合せが催され、そのなかで小町と大伴黒主が合わされることとなった。それを事前に察知した黒主は、歌の実力ではかなわないので一計を案じる。小町が詠むつもりの歌を事前に知り、それを万葉集の草紙の中に書き加えておく。いよいよ歌合せの席、小町がその歌を詠むと、黒主は古歌の剽窃だと主張して、証拠に万葉集の草紙を提出する。それを見た小町は、その歌の部分だけ墨が新しいことに気づき、これは自分を貶めるための黒主の策略だと見抜く。そのうえで、紀貫之の助けを借りて黒主の策略を暴いて見せる。暴かれた黒主は、恥をかかされて自害しようとするが、それを小町のとりなしで、王に許される。そこでめでたしめでたしとなり、小町が王の命に従って舞うところで終わりとなる、というものである。

実話に基づいた話でないことは、小町、黒主、紀貫之がそれぞれ別の時代の人だったことから明らかだ。作者は不明だが、架空の話に託して、小町の人間的な魅力を強調するのが目的だったように思われる。この能の舞台は、卯月のこととなっているが、歌合せの華やかさなどから、正月の能として演じられることが多い。

観世流始め諸流の通常の演能では、前後二段にわかれ、前段で黒主が小町の歌を知ったうえで草紙に細工するところ、後段で宮中の有様が描かれるのが普通だが、この日の宝生流の舞台は、前段を省き後段だけで一曲にまとめていた。そうするのが宝生のやり方なのか、あるいはこの放送のための特別の工夫なのか、筆者にはよくわからない。

そんなわけで、舞台はいきなり登場人物全員が勢ぞろいするところから始まる。この日の舞台は、シテを當山孝道、ワキを福王茂十郎がつとめていた。まず、舞台左手にシテとシテツレ、右手には手前に子方の王を配し、その奥に紀貫之が控える。また黒主は囃子方の前に坐する。(テクストは半魚文庫から)

貫之、黒主、立衆、次第「めでたき御代の歌合。めでたき御代の歌合。詠じて君を仰がん。
サシ「時しも頃は卯月半。清涼殿の御会なれば。花やかにこそ見えたりけれ。
貫之「かくて人丸赤人の御詠を懸け。
貫之、黒主、立衆「各々よみたる短冊を。われもわれもと取り出し。御詠の前にぞ置きたりける。
貫之「さて御前の人々には。
貫之、黒主、立衆「小町を始め河内の躬恒紀の貫之。
貫之「右衛門の府生壬生の忠岑。
一同「ひだりみぎりに着座して。
貫之「既に詠をぞ始めける。ほのぼのと明石の浦の朝霧に。島隠れ行く舟をしぞ思ふ。
地「げに島隠れ入る月の。げに島隠れ入る月の。淡路の絵島国なれや。はじめて歌の遊こそ。心和ぐ道となれ。その歌人の名所も。皆庭上に並み居つゝ。君の宣旨を待ち居たり。君の宣旨を待ち居たり.

一同が王の宣旨を待っているところへ、王が小町と黒主を合わせる旨宣旨する。その宣旨にしたがって、貫之が小町の歌を詠みあげると、すかさず黒主が声をあげ、その歌は万葉集に載っている古歌の剽窃だと主張する。意外な言葉に驚いた王は、小町に真偽を確かめる。それに対して小町は、自分が詠んだ歌だと主張するが、なかなか信用してもらえない。

王詞「いかに貫之。
貫之「御前に候。
王「始より小町が相手には黒主を定めたり。まづまづ小町が歌を読み上げ候へ。
貫之「畏つて候。水辺の草。蒔かなくに何を種とて浮草の。波のうねうね生ひ茂るらん。
王「面白とよみたる歌や。此歌に優るはよもあらじ。皆々詠じ候へ。
貫之「畏つて候。
ワキ「暫く候。これは古歌にて候。
王「何と古歌と申すか。
ワキ「さん候。
王「いかに小町。何とて古歌をば申すぞ。
シテ「恥かしの勅諚やな。先代の昔はそも知らず。既に衣通姫此道のすたらん事を歎き。和歌の浦曲に跡を垂れ給ひ。玉津島の明神より此方。皆此道をたしなむなり。それに今の歌を古歌と仰せ候ふは。古今万葉の勅撰にて候ふか。又は家の集にてあるやらん。作者は誰にてましますぞ。委しく仰せ候へ。
ワキ詞「仰の如く其証歌分明ならではいかでか奏し申すべき。草子は万葉題は夏。水辺の草とは見えたれども。読人しらずとかきたれば。作者は誰とも存ぜぬなり。
シテ「それ万葉は奈良の御宇。撰者は橘の諸兄。歌の数は七千首に及んで。皆わらはが知らぬ歌はさむらはず。万葉といふ草子に数多の本の候ふかおぼつかなうこそ候へ。
ワキ「げにげにそれはさる事なれどもさりながら。御身は衣通姫の流なれば。憐む歌にて強からねば。古歌を盗むは道理なり。
シテ「さては御事は古の猿丸太夫のながれ。それは猿猴の名をもつて。我が名をよそに立てんとや。正しくそれは古歌ならず。
ワキ「花の蔭行く山賎の。
シテ「その様賎しき身ならねば。何とて古歌とは見るべきぞ。
ワキ「さて詞をたゞさで誤りしは。富士のなるさの大将や。四病八病三代八部同じ文字。
シテ「もじもかほどの誤は。
ワキ「昔も今も。
シテ「ありぬべし。
地「不思議や上古も末代も。三十一字のそのうちに。一字もかはらで詠みたる歌。これ万葉の歌ならば。和歌の不思議と思ふべし。さらば証歌をいだせとの。宣旨度々下りしかば。初は立春の題なれば。花も尽きぬと引き開く。夏は涼しき浮草の。これこそ今の歌なりとて。既に読まんとさし上ぐれば。我が身に当らぬ歌人さへ。胸に苦しき手を置けり。ましてや小町が心のうち、唯轟きの橋うち渡りて。危き心は隙もなし。

窮した小町は、黒主の提出した万葉集の草紙をよくよく確かめるに、自分の詠んだという歌の部分だけが、墨のあとが新しいことに気づく。そこで、その草紙を洗ったならば、本来の万葉集の部分は消えずに残り、あたらしい墨の部分だけが消えるだろうと推測する。もしそうなれば、自分への疑いが晴れるわけだ。

シテ「恨めしや此道の。大祖柿の本のまうちぎみも。小町をば捨てはて給ふか恨めしやな。
クドキ「此歌古歌なりとて。左右の大臣其外の。局々の女房たちも。小町ひとりを見給へば。夢に夢見る心地して。さだかならざる心かな。此草子を取り上げ見れば。行の次第もしどろにて。文字の墨つき違ひたり。いかさま小町ひとり詠ぜしを黒主立ち聞きし。帝へ古歌と訴へ申さんために。此万葉に入筆したるとおぼえたり。余りに恥かしうさむらへば。清き流を掬び上げ。此草子を洗はゞやと思ひ候。
貫之詞「小町はさやうに申せども。もし又さなき物ならば。青丹衣の風情たるべし。
シテ「とに角に思ひ廻せども。やるかたもなき悲しさに。
地「泣く泣く立つてすごすごと。帰る道すがら。人目さがなや恥かしや。
貫之詞「小町暫く御待ち候へ。其由奏聞申さうずるにて候。如何に奏聞申し候。小町申し候ふは。唯今の万葉の草子をよくよく見候へば。行の次第もしどろにて。文字の墨付も違ひて候ふ程に。草子を洗ひて見たき由申し候。
王「げにげに小町が申す如く。さらば洗ひて見よと申し候へ。
貫之「畏つて候。如何に小町勅諚にてあるぞ。急いで草子を洗ひ候へ。
シテ「綸言なればうれしくて。落つる涙の玉だすき。結んで肩にうちかけて。既に草子を洗はんと。
地次第「和歌の浦曲の藻汐草。和歌の浦曲の藻汐草。波寄せかけて洗はん。
シテ「天の川瀬に洗ひしは。
地「秋の七日の衣なり。
シテ「花色衣の袂には。
地「梅のにほひや。まじるらん。

小町は草紙を水で洗う。すると自分の歌の部分だけが消えて、他の歌は消えずに残る。そのことから小町への疑いは晴れる。そこで悪事がばれた黒主は、恥を自分の命ですすごうと、自害せんと身構える。それにたいして小町は、これも歌を愛すればこその行いだからといって、黒主を許すと言う。

ロンギ地「かりがねの。翅は文字の数なれど。跡さだめねばあらはれず。頴川に耳を洗ひしは。
シテ「濁れる世をすましけり。
地「旧台の鬚を洗ひしは。
シテ「川原に解くる薄氷。
地「春の歌を洗ひては。霞の袖を解かうよ。
シテ「冬の歌を洗へば。冬の歌を洗へば
地「袂も寒き水鳥の。上毛の霜に洗はん。上毛の霜に洗はん。恋の歌の文字なれば。忍ぐさの墨消え。
シテ「涙は袖に降りくれて。忍草も乱るゝ。忘れ草も乱るゝ。
地「釈教の歌の数々は。
シテ「蓮の糸ぞ乱るる。
地「神祇の歌は榊葉の。
シテ「庭火に袖ぞ乾ける。
地「時雨にぬれて洗ひしは。
シテ「紅葉の錦なりけり。
地「住吉の。住吉の。久しき松を洗ひては岸に寄する白波をさつとかけて洗はん。洗ひ洗ひて取り上げて見れば不思議やこはいかに。数々の其歌の。作者も題も文字の形も。少しも乱るゝ事もなく。入筆なれば浮草の。文字は一字も。残らで消えにけり。ありがたやありがたや。出雲住吉玉津島。人丸赤人の御恵かと伏し拝み。喜びて龍顔に差上げたりや。
ワキ詞「よくよく物を案ずるに。かほどの恥辱よもあらじ。自害をせんとまかり立つ。

小町の申し出に感じた王も、黒主を許すというので、黒主が恐縮する。一方小町は王に命じられて中の舞を舞って見せる。

シテ地「なうなう暫く。此身皆以て。其名ひとりに残るならば。何かは和歌の友ならん。道を嗜む志。誰もかうこそあるべけれ。
王詞「いかに黒主。
ワキ「御前に候。
王「道を嗜む者は誰もかうこそあるべけれ。苦しからぬ事座敷へ直り候へ。
ワキ「これ又時の面目なれば。宣旨をいかで背くべき。黒主御前に畏る。
サシ「げに有難きみぎんかな。小町黒主遺恨なく。小町に舞を奏させよ。おのおの立ちより花の打衣。風折烏帽子をきせ申し。笏拍子をうち座敷を静め。
シテ「春来つては。遍くこれ桃花の水。
地「石に障りて遅く来れり。
シテ「手まづさへぎる花の一枝。
地「もゝ色の絹や。重ぬらん。
シテ「霞たつ。

中ノ舞:この舞の部分はこの曲で唯一の舞であるが、これに先立ってロンギの部分での物洗いづくしの所作も見どころになっている。かくして一気にキリに突入する。

ワカ「霞たてば。遠山になる。朝ぼらけ。
地「日影に見ゆる。松は千代まで松は千代まで四海の波も。四方の国々も。民の戸ざしも。さゝぬ御代こそ。尭舜の嘉例なれ。大和歌の起は。あらがねの土にして。素盞鳴尊の。守り給へる神国なれば。花の都の春も長閑に。花の都の春も長閑に。和歌の道こそ。めでたけれ。

こんな調子で一曲は、和歌の功徳をたたえることで終わる。








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