万葉集巻十三に収められた問答歌は、相聞のバリエーションと言える。相聞歌が、恋焦がれる気持ちを一方的に述べたものが多いのに対して、問答歌は、字面とおり男女の問答という形をとっている。問答といっても、論議のようなものではなく、一方が恋の思いを打ち明け、他方がそれに応えるという形をとっている。それ故、贈答歌と言ってもよい。ここでは、女から男に呼びかけ、それに男が答えたものをとりあげたい。
つぎねふ山背道を
人夫の馬より行くに 己夫し徒歩より行けば
見るごとに音のみし泣かゆ そこ思ふに心し痛し
たらちねの母が形見と 我が持てるまそみ鏡に
蜻蛉領巾負ひ並め持ちて、馬買へ我が背(3314)
つぎねふ山城路を、他の人の夫は馬で行くのに、我が夫は歩いて行く、それを見るたびに声を出して泣きます、それを思うたびに心が痛みます、たらちねの母が形見として私にくれたまそ鏡と、蜻蛉領巾をあげますから、それを持って行って馬を買ってください、愛しいあなた、
つぎねふは山城の枕詞、たらちねは母の枕詞、まそみ鏡はまそ鏡と同じ、銅製の立派な鏡のこと、蜻蛉領巾(あきずひれ)はとんぼの羽のように透きとおった布、上等品である。嫁入り道具を思われるこうした上等品を差し上げて、夫に馬を買ってあげたいと願う妻の可憐な気持ちを素直に詠ったものだ。
これに対して夫が答えた歌。
馬買はば妹徒歩ならむよしゑやし石は踏むとも我はふたり行かむ(3317)
馬を買っても二人は乗れないので、お前は歩いて行くことになるだろう、だからいいじゃないか、石を踏みながらでも二人で歩いて行こうよ、と言う趣旨。昔の日本の馬は、小型の作業用の馬だったので、大人を二人載せるだけの力はなかった。ともあれ、夫婦が互いを気遣うところがほほえましい。
以上は、女のほうがイニシアチブをとったものだが、男がイニシャチブをとったものも当然ある。歌の格は少し劣るが、取り上げたい。
隠口(こもりく)の泊瀬の国に さよばひに我が来れば
たな曇り雪は降り来 さ曇り雨は降り来
野つ鳥雉(きぎし)は響む 家つ鳥鶏(かけ)も鳴く
さ夜は明けこの夜は明けぬ 入りてかつ寝むこの戸開かせ(3310)
こもりくの長谷の国に、わしが妻をよばいにやってくると、たなくもり雪は降るし、さくもり雨も降る、野の鳥の雉はなくし、家の鳥の鶏もなく、夜があけるぞ、夜が明けたぞ、家の中に入ってとりあえず寝ることにしよう、さあこの扉を開けておくれ、
たなぐもりとさぐもりの対比、野つ鳥と家つ鳥の対比、さ夜とこの夜の重ね合わせなど、民謡的な要素が強くみられる歌である。
これに対して妻が答えた歌が続いて載せられているが、長歌のほうは省いて反歌だけを紹介する。
川の瀬の石踏み渡りぬばたまの黒馬来る夜は常にあらぬかも(3313)
川の瀬の石を踏みわたってくるあなたの黒馬は、いつもかわらず来てくれないのですか、という趣旨。「常にあらぬかも」と疑問形で言って、実は願望をあらわしているわけである。
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