遣新羅使の歌:万葉集を読む

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万葉集巻十五は、遣新羅使の一群の歌及び中臣宅守と狭野娘子の贈答歌からなっている。うち遣新羅使の歌は145首、贈答歌は63首である。この二つの歌群の間には、関連はない。ただどちらも、全体で一つの物語を構成しているという点で、他の巻とは顕著な相違を示している。贈答歌のほうは、別稿で触れたので、ここでは遣新羅使の歌を取り上げたい。

遣新羅使とは、天平八年(736)に日本の朝廷が新羅に派遣した使節団である。その使命はあまり明らかになってはいない。続日本紀によると、その前年(735)に新羅からの使節団が日本に来た時、日本側はこれを追い返した。追い返したはいいが、その外交上の影響を心配して、こんどは日本側から使節団を派遣して、相手側にさぐりを入れたということらしい。

使節団は六月に難波から出航し、翌年(737)の一月に帰京した。新羅に何時ついて、そこで何が起こったかについては、記述がないのでわからないが、新羅側は使節団を冷たくあしらったようだ。これに怒った日本側には、新羅を成敗しようとする動きも起こったが、折から都を襲った疫病で高官の多くが死ぬという事態に直面して、新羅成敗は沙汰やみになった。

こんなことから、この使節団は高度に政治的な意義を帯びていたわけだが、歌の調子からはそうした事柄は全く伝わってこない。どちらかというと、使節団の成員一人一人が、愛するものとの別れを悲しみながら、遠く異国に向かう旅情にふけっているといった風情があふれている。つまり形を変えた羈旅の歌といったイメージである。

全体が一つの歌集の体裁を示している。その歌集を編んだ人が誰か、詳しくわかっていないけれど、収められた歌の大部分は、その編者によるものである。中には、大使以下使節団の成員や、旅の途中の宴会の席に坐した浮かれ女の歌なども交じっているが、大部分は編者自身の歌である。

歌集に収められた歌は、出航してから順次旅の経路にしたがって並べられている。往路のものがほとんどで、復路のものはわずか五首しかない。また派遣団の使命である新羅での行動については全く言及がない。遣新羅使の歌としては非常に偏っているわけである。これは、歌集を編纂したものが私的な関心から行ったことで、公的な記録としてではなかったのだから、責めるわけにもいかない。

歌集の冒頭には、難波を出航して新羅に向かうにあたっての、いわば覚悟のような気持ちを詠った歌十一首が並べられている。これらは古歌と書かれているが、おそらく編者自身の歌だろうと思われる。十一首のうち十首は、互いに別れを惜しみあう男女の贈答歌が五組並んでいる。順次読んでみたい。

  武庫の浦の入江の洲鳥羽ぐくもる君を離れて恋に死ぬべし(3578) 
  大船に妹乗るものにあらませば羽ぐくみ持ちて行かましものを(3579) 
一首目は、武庫の浦の入江の洲鳥が子をはぐくむように、わたしを大事にしてくださったあなたと別れたら、わたしは恋死んでしまうでしょうという趣旨で、女の歌である。これに対して二首目は、男が女に答える。この船にお前も乗れるのなら、鳥のようにはぐくんで連れてゆくところなのだが、と。

  君が行く海辺の宿に霧立たば吾が立ち嘆く息と知りませ(3580) 
  秋さらば相見むものを何しかも霧に立つべく嘆きしまさむ(3581) 
一首目は女。あなたが行かれる海辺の宿に霧がかかったら、それは私の嘆きの息だと思ってください、という趣旨。これに男が答えて、秋になったらまた会えるではないか、なにも息が霧になるほど嘆かなくともよいではないか、という。

  大船を荒海に出だしいます君障むことなく早帰りませ(3582) 
  ま幸くて妹が斎はば沖つ波千重に立つとも障りあらめやも(3583) 
これも一首目は女。大船を荒海に出して行かれるあなた、無事早くお帰りなさいませ、と呼びかける。それに答えて男。お前が私の幸運を祈ってくれれば、沖に波が立つとも不都合はあるまい。

  別れなばうら悲しけむ吾が衣下にを着ませ直に逢ふまでに(3584) 
  吾妹子が下にも着よと贈りたる衣の紐を吾れ解かめやも(3585) 
これも女から男に呼びかける。別れれは悲しいでしょから、わたしの作った形見の衣を着ていてください、今度あうまでに。それに男が答えていう。妻が下着に着よとて贈ってくれた衣のひもは、今度会うまでは解かずにおこう。つまり、浮気などしないよという意思表示だ。

  吾がゆゑに思ひな痩せそ秋風の吹かむその月逢はむものゆゑ(3586) 
  栲衾新羅へいます君が目を今日か明日か斎ひて待たむ(3587) 
これは男の方から女に呼びかけている。わたしのためを思うあまりに痩せないでほしい、秋風が吹くころにはまた会えるではないか、と慰めているのに対して、女のほうは、新羅へいらっしゃるあなたのその目を見る日を、今日か明日かと祈りながら待っていましょう、と答える。

いづれの歌も、男女が相手を気遣うさまを詠っている。そこには、自分たちの私的な感情を大事にする気持ちはあっても、遣新羅使という任務についての言及はない。

難波を就航した船は、瀬戸内海を陸地に沿いながら進んでゆく。その航路の先々で、編者はさまざまな歌を歌いかつ、成員の詠った歌を収めている。また、場合によっては、古歌を合唱しながら、旅のつれづれを慰めたりもしている。そんな古歌の一つ。
  あをによし奈良の都にたなびける天の白雲見れど飽かぬかも(3602) 
これは、海上から奈良の都のほうを望んだときの気持を詠ったものだが、調子からして柿本人麻呂を思わせる。

中には柿本人麻呂の歌のバリエーションだと断ったものもある。たとえば次の歌。
  白たへの藤江の浦に漁する海人とや見らむ旅行く我を(3607)
これは柿本人麻呂羈旅の歌八首のうちのひとつ、「荒布(あらたへ)の藤江の浦に鱸釣る海人とか見らむ旅行く吾を」のバリエーションである。この編者は、柿本人麻呂の歌に非常な敬意を表していて、機会あるごとに、その歌をとりあげて鑑賞していたようである。

  吾れのみや夜船は漕ぐと思へれば沖辺の方に楫の音すなり(3624) 
これは、長門の浦より船出して、月を見ながら詠ったものである。

  吾が旅は久しくあらしこの吾が着る妹が衣の垢つく見れば(3667) 
また次も、「海辺にして月を望みて作る歌」である。船の旅であるから、会場の旅情がだいご味となっているわけである。

使節団が肥前から対馬に向かう途中、成員の一人雪宅満が疫病で死んだ。新羅からの帰途にも船内に疫病が発生し、大使の阿倍継麻呂が死んでいる。この時代の使節団は命がけだったわけである。雪宅満の挽歌が三首収められているが、なかなか読みがいがある。そのうちの一首。

  天皇の遠の朝廷と 韓国に渡る我が背は 
  家人の斎ひ待たねか 正身(ただみ)かも過ちしけむ 
  秋去らば帰りまさむと たらちねの母に申して 
  時も過ぎ月も経ぬれば 今日か来む明日かも来むと 
  家人は待ち恋ふらむに 遠の国いまだも着かず 
  大和をも遠く離りて 岩が根の荒き島根に 宿りする君(3688)
    反歌
  岩田野に宿りする君家人のいづらと吾れを問はばいかに言はむ(3689) 
  世間は常かくのみと別れぬる君にやもとな吾が恋ひ行かむ(3690) 

対馬に着いた使節団は、竹敷の浦に停泊し、そこで宴会を催した。新羅を眼前にして気持ちが高ぶったものと見える。その宴会では、使節団の人々がそれぞれ歌を詠んでいる。余興として詠まれたのだろう。陪席した遊行女も歌を詠んでいる。まず、大使阿倍継麻呂の歌。
  あしひきの山下光る黄葉の散りの乱ひは今日にもあるかも(3700) 
山の下の方まで光り輝くもみじの盛りは、まさにいまなのだ、という感動を詠ったものだろう。この歌からして、使節団は秋の終わりころに新羅に入ったと思われる。

次は、宴会での遊行女の歌。詞書からして名を玉槻といったことがわかる。
  黄葉の散らふ山辺ゆ漕ぐ船のにほひにめでて出でて来にけり(3704) 
  竹敷の玉藻靡かし漕ぎ出なむ君がみ船をいつとか待たむ(3705) 
辺地の遊行女とはいえ、なかなかの教養を感じさせる。






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