娘子伝説:万葉集を読む

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万葉集巻十六は、万葉集のなかでも非常にユニークな巻だ。伝説や民謡に取材した歌のほかに、諧謔や笑いを詠ったものが多い。正岡子規は、諧謔や滑稽を文学的趣味の大なるものとしたうえで、万葉集の巻十六が滑稽に満ちているとし、「歌を作るものは万葉を見ざるべからず、万葉を読む者は第十六巻を読むことを忘るべからず」と言って激賞した。ここでもおいおいそういう歌を鑑賞するとして、まず冒頭に巻頭に収められた娘子伝説にかかる歌を取り上げたい。

万葉集には、葛飾の真間の手児奈とか葦原の菟原処女にかかわる伝説をテーマにした歌が収められている。それらは、山部赤人とか笠金村とか高橋虫麻呂といった高名な歌人によって詠われたが、巻十六には、無名のものによる似たような歌が収められている。それらの伝説も、複数の男に愛された女が、自分の運命を呪って自殺するところは共通している。ここでは無名作者によるそんな歌を二つ紹介したい。

まず、桜子伝説をめぐる歌。これには次のような詞書が記され、伝説の概要を伝えている。
   昔者娘子ありき。字を櫻兒と曰ふ。時に二の壮子あり。
   共にこの娘を誂(あとら)ひて、生を捐(すて)てて挌(たたか)ひ、
   竟(つひ)に死を貪(むさぼ)りて相敵(あた)る。
   ここに娘子戯欷(なげ)きて曰はく「古より今に来るに、
   未だ聞ず未だ見ず、一の女の身、二つの門に徃適(ゆ)くと
   いふことを。方今、壮子の意和平(にぎ)難きものあり。
   妾が死にて、相害ふこと永く息まむには如かず」といふ。
   すなはち林の中に尋ね入りて、樹に懸りて經(わなな)き死にき。
   その兩の壮子、哀慟(かなしび)に敢へずして、
   血の泣襟に漣(なが)れ、各心緒を陳べて作れる謌二首

桜児という娘を二人の男が同時に愛したこと、それを罪深く感じた娘が自殺したことは、手児奈や菟原処女の場合と共通する。詞書に続いて、男たちが娘の死を悲しんで作った歌が二首収められている。

  春さらば挿頭(かざし)にせむと我が思(も)ひし桜の花は散りにけるかも(3786)
  妹が名に繋(つ)ぎたる桜花咲かば常にや恋ひむ弥(ひ)さ年のはに(3787)
一首目は、春が来たら簪にしようと思っていた桜の花が、散ってしまったことよ、という趣旨で、愛する女を失った悲しみを桜の花が散ることにたとえている。二首目は、お前の名につながる桜の花を、いつも思いだして恋い続けるのだろうか、くる年もまたくる年も、という趣旨。どちらの歌も、桜子の名前から桜の花を連想し、娘の死を桜の花の散ることにたとえているが、実際にはまず歌が流布していて、それを都合よく説明するものとして、詞書にあるような話が作られたと考えることもできる。その場合に、手児奈や菟原処女についての伝説が参考にされたのだろう。

次は、三人の男に愛された娘子をめぐるものだ。まず詞書から。
   或は曰ふ。むかし三人の男あり。同(とも)に一の女を娉ふ。  
   娘子嘆息(なげ)きて曰はく、「 一の女の身は滅し易く露の如く、
   三の雄の志は平(にき)び難く石の如し』といふ。 
   遂に池の上に彷徨(たもとほ)り、水底に沈没(しづ)みき。
   時に其の壮士ども、哀頽(かなしび)の至りにあへず、
   各所心を陳べて作れる謌三首 (娘子、字を縵兒といふ)

これも、名を縵兒(かづらこ)とし、相手の男を三人としているほかは、桜児の話とほとんど同じ内容である。歌の数も男の数に合わせて三首である。
  耳成の池し恨めし吾妹子が来つつ潜かば水は涸れなむ(3788)
  あしひきの山縵の兒今日行くと我れに告げせば帰り来ましを(3789)
  あしひきの玉蘰の兒今日の如いづれの隅を見つつ来にけむ(3790)
一首目は、あの子が潜るのだったら池には枯れてほしいと詠い、二首目は、あの子が今日池に行くといったなら、わたしが連れて帰ったものをと詠い、三首目は、私は今日この池のそばを通っているが、あの子はどの道を通ってこの池に来たのだろうかと詠って、いずれも愛する女を失った悲しみを表している。歌の格としては、桜児を惜しむ歌よりは平板に聞こえる。






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