時計じかけのオレンジ(Clockwork Orange):スタンリー・キュ-ブリック

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スタンリー・キューブリックはスピルバーグと並んでSF映画の草分けと言われ、スピルバーグとは親しく付き合っていた。そのスピルバーグが宇宙人との平和な共存をテーマにしたどちらかと言うとソフトな映画を作ったのに対して、キューブリックはハードな暴力を好んで描いた。1971年の作品「時計じかけのオレンジ」はキューブリックの暴力映画の代表というべきもので、少年の暴力とそれを巧みにコントロールしようとする権力の野望を描いている。

映画の前半ではティーンエイジャーたちが徒党を組んで暴力を楽しむところを描いている。この少年たちは四人でグループをつくり、弱い者を標的にして暴力の限りをつくす。ホームレスの老人を寄ってたかって叩きのめしたり、敵対するチンピラグループと喧嘩をしたり、一軒家に無理やり押し入って強盗と強姦を働くといった具合だ。彼らの間では仲間内のジャーゴンが話されていて、ミルクをモロコと言い、ちっぽけなことをマレンキーと言い、ごきげんなことはホラーショーと言う。モロコがロシア語でミルクをさし、マレンキーもやはりロシア語で小さい意味だとはすぐにわかるが、ホラーショーとはどういうことかと思えば、これもやはりロシア語の「ハラショー」を英語流に発音したものなのだ。

キューブリックはこの少年たちにロシア語崩れのジャーゴンをしゃべらせることでロシア人をからかっているつもりなのだろう。アメリカ人には英語以外の言語を侮蔑する傾向が強いのだが、これもまたその一つの例ということらしい。

キューブリックがことさらにロシア語を引き合いに出してくるのは、全体主義社会のイメージを掻き立てる目的かららしいということが映画の後半から何となく伝わってくる。映画の後半は殺人罪で投獄された少年が、権力によってマインドコントロールされるところを描いている。アメリカでは犯罪が多発して監獄満員となり、その維持のために膨大な予算を必要としている。そこで犯罪者を監獄で養うよりももっと手際よく彼らを遇する方法を編み出した。それは犯罪者たちをマインドコントロールして、一定の事象をきっかけにして彼らが自殺するようにプログラミングするというものだった。これだと犯罪者たちは自発的に死んだということになり、自分自身にとっても社会にとっても都合がよいというわけである。

このように社会の成員を権力の都合のいいように作り替えるような社会は、究極の全体主義社会と言ってよい。そのような社会をキューブリックはディストピアの一例として提起したというのがどうもこの映画の売りらしいのである。キューブリックはそのディストピアをソ連に範をとって描いたというつもりらしい。

もっともこの映画からは全体主義社会への警告という色彩はあまり伝わってこず、むき出しの暴力ばかりが強調されているので、見ている方としては暴力映画としか受け取れない。

ひとつ面白いのは、マインドコントロールを施されて娑婆に戻ってきた少年を、かつてのチンピラ仲間が迎えるところだ。彼らはいまや警察官となっていて、権力の執行者である。その権力を彼らはかつての仲間である少年に向ける。よってたかって彼を叩きのめすのだ。こういうシーンを見せられると、アメリカの警察というのはすさまじいものだとの印象を強くする。近年アメリカの白人警察による黒人市民への暴力行使が問題となっているが、この映画からはその問題の根っことなっているものが見えてくるような気がする。





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