学海先生の明治維新その卅九

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 学海先生が東京を目指して京都を立ったのは明治元年十月五日のことであった。公議人は東京に集合すべしとの新政府の指示に従ったものだった。先生が藩命を受けて京都へ来たのは慶應四年二月晦日のこと。それ以来実に七か月以上が経っていた。
 当日の早朝学海先生は僕を従えて京都出水の寓居を出立した。その時の様子を先生は日記に次のように記している。
「人々に別を告て出水の寓居を立出ず。永田父子・寺本信蔵等おくりて蹴上ゲに至り、逢坂を越るとて、
  いのちありてまたふる郷へ玉くしげ二たび越るあふさかのせき
瀬田の橋を渡るとて
  世渡りのたずきもやすく君が代に人とだへせぬ瀬田の長はし
今夜は草津にやどる」
 故郷へ戻れる先生の高揚した気分が伝わってくるようだ。先生はこの心の高揚を過去の日記の伝統を踏まえて表現したのである。この旅日記の部分には歌で旅の印象を記した箇所が多い。以前の旅日記には、漢詩を詠む記事はあったが歌はなかったものだ。
 江戸へは京都を立って十三日後の十月十八日に着いた。実はその前日に品川まで来ていたのだったが、品川には国元に帰る薩摩兵が充満していて、とばっちりを恐れた駅長が姿をくらまし馬を借りることができなかったために、やむを得ずに品川に一泊したのだった。先生は多くの荷物を持参していたため馬がないと先へ進めないのである。
 なお戸塚から品川に向かう途中、徳川の家臣団が妻孥を引き連れて駿河へ向かうのに出会った。徳川家が新当主家達のもとに新たに駿河七十万石を与えられたことに伴い、それまで江戸住まいをしていた旗本・御家人などの家臣団が大挙して駿河へ向かったのである。
 その家臣団の中に旧知の人を見かけた学海先生は、思わず懐かしい気持にとらわれて声をかけた。
「このたびは大儀でござる」
「これは依田殿。江戸へ赴かれるか?」
「さよう。京へは公用のため七か月ほど滞在仕りましたが、このたび命により江戸へ戻ることに相成りました。江戸はいまや東京と言うそうですが」
「我らはこのとおり、その東京を追われて駿河に身を寄せることとなり申した」
「されど、その駿河に徳川家が再興できたことは不幸中の幸いと言わねばなりますまい」
「とは申せ、我らの暮らし向きが果たしてこの先どうなるか、心配の種は尽き申さぬ」
「江戸の家財はどうされました」
「二足三文で売り払い申した。今後江戸に戻ることもありますまいからの」
「とまれご奮闘を願っておりまするぞ」
 十八日の昧爽品川を立ち、まだ朝早いうちに麻布の藩邸に着いた学海先生はその足で君公に拝謁し、また重臣らに京都における事柄について復命した。
 先生の妻子は三月に佐倉へ移り、家のなかは家具一つないがらんどうのありさまだった。先生は隣家から夜具を借りて寝たのである。その翌日先生は会津がついに降伏したという話を聞いた。その時の気持を先生は次のように日記に記した。
「会津、去月(九月)十六日、秋月、手代木両人嘆願書を官軍に呈して降を請ひしとぞ。あはれなり。かかる事ならましかば、戦を致して多くの人を殺さましを」
 先生は不毛な戦いの愚かさを指摘して慨嘆しているのである。
 二十日に江戸を出て佐倉に向かった。日本橋通りを過ぎると、悉く木戸を毀ち道を広げていた。これは夷人の車馬通行の便宜を図ったものだと先生は聞かされた。
 また船橋駅を過るときには、官軍によって町が焼かれ廃墟同然になっているありさまに驚かされた。先生はここでも、
「実に兵は凶器なる哉」と言って慨嘆することしきりであった。
 佐倉に着くとまず兄の家を訪ね、そこに暮らしていた母と会った。その家とは今でいう江原台の印旛沼を見下ろす高台に立っていた。兄が佐倉での別荘として建てたものである。江原台は佐倉の町の入り口にあたるところなので、まずここを訪れたということであろう。
 翌日藩庁に赴いて藩の重役と国家の動向や藩としてとるべき道について議論した。重役たちは先生の意見に賛同してくれたと先生の日記にはあるが、先生がここでどのような議論をしたのか、詳しいことはわからない。おそらく国家の公議人としての立場から新政府の方針に沿った考え方を開陳したのだと思う。
 会議後将門山の藤井氏の家に赴き、ここに身を寄せていた妻子と久しぶりに対面した。藤井氏は細君の実家である。その家がある将門山とは将門神社があるところから名付けられたところで、佐倉の東の町はずれにあり、大佐倉方面を見下ろす台地の先端部に位置している。そこからも印旛沼が望める。
 その印旛沼を見下ろしながら先生は久しぶりに細君との会話を楽しんだ。
「留守中大儀であったの」
「旦那様がお立ちになってすぐ実家に移りましたので、心細い思いはせずにすみました。でも、旦那様がいらっしゃらないとやはりさびしくでしかたがありません。こうしてお会いできてうれしうございます」
「子供らも元気でおったようだな」
「はい、二人とも元気でおりました。でも私の乳の出が悪いので、琴柱のほうには、実家にお願いして乳母をつけております」
「いたし方があるまい。追って江戸に戻るつもりじゃが、琴柱は連れていけそうかの」
「いましばらく実家に置いておくのがよろしいかと思います」
「さようか、ではそうすることとしよう」
 学海先生は二女の琴柱を細君の実家に引き続きあずけ、細君と長女の二人を東京へ連れてゆく決心をした。
 学海先生には姉が一人いた。先生はその姉の夫が不倫を犯して姉を苦しめているという話を聞いた。そこで先生は兄と相談して離婚させることに決めた。姉もそれを望んでいたのかどうか、先生は書いていない。
 十月二十六日に先生は妻子とともに佐倉を立って東京に向かった。家具は別途登戸から船で運ばせた。その日は行徳に泊まり、翌日船に乗って芝浜に向かう途中、船のなかで八日市場の人と話を交わした。その人が言うには、水戸の内紛のあおりで去る六日に諸生党の者が六十人ほど八日市場に逃れてきたが、それを追いかけてきた天狗党の者らと戦いになり、諸生党は二十三人が討たれ、天狗党は五人死んで九人が負傷した。そんな話を聞くにつけても、学海先生は人間の愚かさを感じないではいられなかった。
 麻布の上屋敷に着いて役宅に家具を運び入れ、やっと一息ついたところで学海先生は、久しぶりに親子水入らずの暮らしが戻ってきたことを喜んだ。家具の足りないものは細君とともに市を歩き回って買い求めた。
 東京へ着いた数日後、学海先生は東京城に赴いて尾張・紀州・長州・土佐など諸藩の公議人と合議した。全国の藩を十二に分け、それぞれに触元を決めることとした。佐倉藩は房総十三藩の触元になった。長らく有名無実だった公議人にもいよいよ活躍の機内がおとずれる気配を学海先生は感じとった。それにつけても佐倉藩は新体制のもとでそれなりに重要な職に就くことができた。これを思うと先生は先日の川田毅卿との会話が念頭に浮かんだ。川田の備中松山藩は進路を見誤ったために藩主自ら朝敵となり、いまだに新政府の追求を受けている。それに対して我が佐倉藩はこうして国政の一角を担うに至っている。運命とはいかにも過酷なものだと先生は改めて思わずにはいられなかった。
 十一月七日に先生は藩から正式に公議人の辞令を受け、あわせて藩の老職に任じられたほかそれにふさわしい俸禄を賜った。これは公議人を藩の参政から出すべしとの新政府の指示に従った措置であった。これに伴って従来学海先生の留守居役の上司だった野村弥五右衛門は公用人とされた。公用人は公議人の下風に立つ職である。かつての上下関係が逆転したわけである。このことについて学海先生は、
「野村氏、公用人たるを以て余が下たるを恥じ、余もまた力をのぶる能わざるをよろこばず」と書いて恐縮した。
 十一月十一日には触元十二藩の公議人が酔月楼に集まって議論した。議論の内容は主に公議人の職掌を確認するものだった。その議論とは別に、奥羽越諸藩の処分についての意見の交換も行われた。先日各公務人に対して奥羽越諸藩の処分をどうすべきか意見を徴されたことがあったが、各藩ではどのような意見を述べたかが改めて話題になったのであった。
 薩摩や長州は奥羽越諸藩を朝敵とみなし、きびしく処分すべきだとの意見が強かった。それに対して寛大な処分を望む藩もあった。学海先生の佐倉藩も重い処分はかえって無益であるとして、これからの国の統一を考えるならば、過去の恩讐は棚上げして、一致団結するためにも軽い処分にとどめるべきだとの意見が強かった。先生自身もその意見を共有していた。それ故薩摩や長州などが強硬な意見を吐くのを聞くと、憂鬱な気分にならざるをえなかった。何しろ今は薩長の時代である。彼らの意見が国の方向を定めるのだ。
 公議所の活動は年明けから本格化させることとなり、各藩の公議人はとりあえず国元に帰ってよろしいとの布令が出た。また十二月八日には天皇が東京を立って京都に戻って行った。
 こうして慶應四年として始まり明治元年で終わったこの年を先生は回顧して次のように日記に記した。
「去年は世の中おだやかならずして、このとしの正月三日は伏見の戦なりき。ことしは天下一統に帰してややおだやかなりと、人もいふものから、いかにあるべき。建武の政も、北条氏を滅するはやすくして足利を討ずることかたし。成敗興亡はあらかじめ謀りがたきことなりかし」





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