内田樹「他者と死者」

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「他者と死者」は、「レヴィナスと愛の現象学」に続く内田樹のレヴィナス論である。副題に「ラカンによるレヴィナス」とあるように、ラカンを絡めながらレヴィナスを論じているが、ラカンの視点からレヴィナスを論じているわけではない。この二人には、問題意識とか論述の進め方に共通点が多いので、並べて論じたら何か目新しい発見があるかもしれない、というような期待を込めて、この二人を並べて論じたということらしい。

この二人には多くの共通点があるが、その最も大きなものは、どちらもめちゃくちゃにむつかしい文章を書くということである。それを内田は「邪悪なまでに難解なテクスト」と言っているが、そんなにも難解なテクストを彼らが書くのは、それによって、「『あなたはそのような難解なテクストを書くことによって、何が言いたいのか?』という『子どもの問い』へと読者を誘導すること」なのだという。つまり読者を、「テクストの意味」ではなく、「書き手の欲望」を追う読み方へとシフトさせること。それが彼らの文章表現に共通する最大の特徴だというのである。

それゆえ内田によれば、ラカンとレヴィナスに共通する特徴は、読者に向かってテクストの意味を提示することではなく、読者に向かって謎を提示し、その謎を通じて「書き手の欲望」を共有させることだということになる。つまり読者との間に、論理のつながりではなく、欲望のつながりを確立し、それを通じて読者に書き手の欲望を生きさせること、それが彼らの文章の持つ最大の効果だというわけである。

ところで、彼らが言うところの謎であるが、謎というものは単独では存在しない。「何かが二度繰り返されるときにはじめて『謎』は生成する。『謎』が『謎』となるためには、二度なにかが指示されることが必要だ。『ア・レーテイア』と同じように、一度目は示すために、二度目はそれを取り消すために。その時人は『それは何か』という問いを発せずにいられなくなる」

「ア・レーテイア」とは、真理を表す言葉としてハイデガーが強調したものだが、その語源的な意味は、否定を表す前綴「ア」と忘却を表す「レーテー」の合成語である。真理とはつまり、忘却の否定だというわけである。忘れることを打ち消すこと、それが真理の働きなのである。忘れることを打ち消すことで、それまで忘却されていたことが明瞭な姿で復活してくる。それは、忘れられ、覆いをかぶせられていたものが、隠れもないあらわな姿で現れてくることを意味する。

ともあれ読者に謎を投げ与え、それを通じて書き手の欲望に向かって読者をひきつけること、これが彼らの文章の目的ということになるわけだが、このようにして生じる書き手と読者の関係を内田は、師と弟子の関係にたとえている。師と弟子の関係についての内田の議論は別のところでも触れたのでここでは繰り返さないが、それが絶対的な他者としての神と人間との関係の原型をなすものだと確認しておけばよいだろう。

ラカンとレヴィナスの大きな共通点はもう一つある。ユダヤ人への迫害を何らかの形で身を以て体験したことである。レヴィナスは自身ユダヤ人であり、アウシュヴィッツに送られる資格は十分あったが、たまたまフランス軍兵士としての身分に守られて、アウシュヴィッツに送られずに済んだ。しかし家族をアウシュヴィッツで失った。一方ラカンは、自身はユダヤ人ではないが、妻やその母がユダヤ人であって、殺される危険に常に直面していた。ラカンは彼女らの命を守ることに必死で、そのためには何でもした。主義や主張の前にまず、愛する人の命を守ること、それが彼の至上命題だったわけだ。

この過酷な体験を経て、レヴィナスのほうは、生き残ってしまったものとしての良心の呵責に生涯苦しむことになる。彼の著作活動はこの苦しみの表現としての意味あいを持っている。一方ラカンのほうは、自身の過酷な体験を踏まえて、人間の中に潜む闇の部分にますます注目することになる。フロイディアンとして出発したラカンは、人間の無意識の闇に一層の力点を置くようになるわけだが、それは自分自身が体験した過酷な過去に引きずられていたという面もある。

以上は、ラカンとレヴィナスに共通する外面的な事項についての指摘であるが、この本の後半では、レヴィナスの思想の特徴が内在的に分析されている。

本のタイトルにもあるとおり、主要なテーマは他者である。他者の問題については、前作の「レヴィナスと愛の現象学」でも主題的に論じられていた。それを復習すると、他者の中の他者、絶対的な他者とは神だということになる。この神とのかかわりを論じることこそがレヴィナスが生涯かけて追及したところであって、この本においてもそれは変わらない。ただひとつ気になるというか、面白いのは、前作では、神と並んで女性が他者の典型としてとりあつかわれ、その結果神が女性と同一視されるに至っていたのが、この本の中では女性がほとんど出てこない。そのかわり死者が出てくる。死者の問題は女性以上に輻輳した問題領域といえ、それを論じ出すと果てしのない議論になりがちなのだが、どうもこの本の中では、死者こそが神の原型だと捉えているらしい。

内田はその根拠づけにわざわざフロイドまで持ち出して来て、神と言うものは殺された父親なのだと言っている。つまり前作では神は女性とされていたものが、この本では父親=男性に変っているわけである。少なくともユダヤ=キリスト教的な文化圏では、神のイメージは父権を思い出させるものであって。男性原理に支えられているというのが常識的な見方である。それを内田は、ひとまずは神は女であるというような異端的な物言いをしておきながら、この本では伝統的な見方に立ち返って神は男であると宣言しているわけである。内田がなぜそのような転回をするに至ったか、それはこの本からはうかがい知れない。

ともあれ、内田によるレヴィナスの他者論は、フッサールの他我論を参照しながら展開されている。フッサールのいう他我が自我の延長なのに対して、レヴィナスのいう他者は自我の彼方にあるものだ。それは究極的には神という形をとる。神と人間との間にはなんら共通の前提はない。神はあくまでも人間とは隔絶した次元に君臨している。したがって神に近づくためには、人はある種の超越を行わねばならない。その辺の筋道はパスカルやキルケゴールを想起させるが、レヴィナスの議論はもっと過激である。過激と言うのは、普通の論理では捉えがたいということである。

レヴィナスのテクストが邪悪なほどに難解なのは、このような事情があるからである。神との一体化はロゴスによっては達成されない。ロゴスで不足な部分はそれ以外の能力で補わねばならない。ところがこの能力と言うものが、人間にはこれまで十分知られてはいなかったのだ。一部の特権的な人を除いては。レヴィナスは、そういう特権的な人たらんとして生涯もがき続けたのだと内田は言いたいように聞こえてくる。






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