戦いの今日:大江健三郎

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「戦いの今日」も、米兵に侮辱される日本人という大江にとっておなじみのテーマを描いたものである。この小説では日本人の女までが日本人に向かって侮辱の言葉を投げかけている。しかも米兵を徴発するようにだ。この女、いわゆるパンパンだが、そのパンパン女の言葉に徴発されるようにして米兵が日本人を侮辱するのだ。その他にも日本人を侮辱する米兵はいる。日本人が脱走を手助けした若い米兵で、先ほど触れたパンパン女の情夫格の男だ。この男は十九歳という若さで、まだ分別を身につけていないのだが、ちっぽけな日本人を侮辱することは知っているのである。
大江はこの小説を形のうえでは三人称で書いた。だから主人公は「かれ」と呼ばれるのだが、「かれ」は登場人物のうちの特権的ではあるが、相対的に重要な存在という位置づけには甘んじておらず、事実上小説の語り手に等しいほどの重みをもっている。ということは、この小説は「かれ」と呼ばれる主人公に一体化する形で、「かれ」の視線にそって書かれているのである。だから「かれ」を「ぼく」に置き換えて読んでも、ほとんど不都合は生じないはずだ。

そのかれが、米兵に侮辱されるというのがこの小説の眼目をなすテーマである。先ほど触れたように、かれは米兵によって二度侮辱される。一度目は、かれが助けてやった若い米兵によってである。この米兵は朝鮮戦争の要員として、いずれ朝鮮半島での戦争に駆り出され、朝鮮人を殺すことを期待されている。そのことにこの若い米兵は耐えきれないでいて、なんとか人殺しを避けるために脱走したいと思っている。といっても、当時流行ったような良心的兵役拒否ではない。この若い米兵は、思慮の足りなさもあって、自分から志願して兵役に服したのだ。ところがいざ兵役についてみると、自分に朝鮮人の殺害が期待されていることを骨身に感じて、それに拒絶反応を起こしただけなのである。

一方かれのほうは、大学の学生運動の一環として、米兵の脱走を手助けすることを装い、米兵に脱走を呼びかけるビラをまいていた。そのビラに、この若い米兵が飛びついたというわけである。もっとも米兵が直接アクセスしてきたわけではなく、オンリーといわれる日本人のパンパン女を通じてだったが。

しかし学生運動の首謀者のほうでは、米兵に脱走を呼びかけるのはただのポーズで、彼らの脱走を本当に助けるつもりはない。だから米兵がビラに応じても、それをまともに受け止める気持ちはないのだ。そこでかれが弟ともにその米兵を引き取るはめになる。かれと弟とは一心同体のような間柄で、何事も一緒に行動しているのだ。

かれと弟に保護された若い米兵は、始めは殊勝に振舞っていたが、そのうち尊大な態度をかれらに対して示すようになる。どうやら日本人は少しくらい馬鹿にしたり侮辱しても文句をいわず忍従する情けない連中だと思っているようなのである。そこでまず、かれの目の前で弟を虐待する。その虐待ぶりが、野良犬を弄ぶようないかがわしさに充ちていたので、かれは怒りを爆発させる。怒りのままにかれは若い米兵をこっぴどくやっつける。この思い掛けない反撃を食らった米兵は、こそこそと逃げ出すのだが、米兵が逃げた先というのが、かれがそこから逃げて来た米軍キャンプなのだ。そこでその若い米兵はMPによって射殺されてしまう。

そのMPとかれは米軍キャンプの近くの飲み屋で出会う。その飲み屋で、MPたちから若い米兵を射殺した話を聞かされる。射殺したのはそのMPたちだったというのだ。すると若い女の情婦が怒り狂って、ほかならぬかれを人殺しよばわりする。殺したのはMPにかかわらず、同じ日本人のかれを人殺し呼ばわりするのだ。それに対してかれは別に怒るわけでもない。それどころか、いままでお荷物になっていた若い米兵が死んだことに安堵を感じているのだ。

そんなわけでこの小説は、米兵によって二度まで侮辱された日本人が、最初の侮辱では怒りを感じたものの、二度目の、もっと大きな侮辱に対しては卑屈な振舞いに徹すると言う、人間としてのふがいなさを描いている。それを読むと、米兵の日本人に対する侮蔑が主なテーマなのか、それとも日本人のふがいなさが主なのか、どちらとも決められないもどかしさがあるが、強者による弱者の侮辱と弱者によるそれへの忍従とはメダルの裏表のような関係にあるから、きっとどちらも同じ比重をもっているのだろうと思う。

小説のラストシーンは、かれにくりかえし侮辱の言葉が浴びせられるところを浮かび上がらせている。最初にかれを侮辱したのは日本人のパンパン女だ。その女はMPたちの前でかれをゆびさして「そのジャップの人殺しを外へつまみだしておくれ」と叫ぶ。するとMPたちは人懐こい目で愛想よく笑いながら声だけは厳しく、「出てゆけ、人殺しのジャップ、お前は俺たちの同胞じゃない」と罵る。それに呼応するように酒場の女がかれにむかって言うのだ。「出てゆけ、人殺しのジャップ、お前は俺たちの同胞じゃない」と。

大江は「飼育」以来米兵へのこだわりを小説のなかで描き続けて来た。「飼育」の場合には日本人の捕虜になった黒人兵を、日本人が殺すというものだった。「人間の羊」では、戦後の占領者としての米兵が、非占領者たる日本人を犬や家畜のように見下すさまを描いた。いずれも背景となった時代状況を反映したものだった。それがこの「戦いの今日」においては、朝鮮戦争を背景にしながら、朝鮮戦争に反対する左翼のうわべだけの無責任さをあばきだすとともに、占領者としての米兵が相変わらず日本人を犬や家畜のようなみじめな存在として見ている現実を浮かび上がらせている。大江にとっては、この小説を書いた時点では、まだ戦争は終わっていなかったということだろう。






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