いやしといやされ:大江健三郎「個人的な体験」

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「個人的な体験」では、主人公のバードとその女友達火見子との関わり合いが大きなテーマとなっている。彼らの関係のあり方は、当初は女が男に一方的に与えるという片務的なものとして出発したが、やがては互いに求め合う双務的な関係、双務的と言って抵抗があれば、相互的な関係に発展していく。だがその関係から男のほうが一方的に脱落し、自分を男に与えていた女がひとりで取り残されるという結果に終わる。それはいわば、男から仕掛けた性交が、オルガスムの一歩手前で、その男によっていきなり中断されるような形をとる。女は男から性交を仕掛けられたにかかわらず、その男が中断してしまったために、中途半端なまま取り残される結果に終わるのだ。

バードと火見子は大学の同級生だった。彼らは卒業して以来別々の道を歩んでいたが、そんな火見子のところにバードが訪ねて行く気になったのは、自分の息子の脳に異常のあることを知って意気消沈した時に、義父からもらったウィスキーをどこで飲もうかと思案した結果、この女友達のところでなら心置きなく飲めると思ったからなのだった。つまり、気兼ねなくウィスキーを飲める場所を求めて、この女友達を訪ねたわけで、その意味では実に功利的な動機に出た行為だったわけだ。

実際バードは火見子のところで心置きなくウィスキーを飲むことができた。飲みすぎてひどい二日酔いになり、そのことで勤め先の予備校でスキャンダルを起こし、自分の立場を悪くしたほどだ。それもみな火見子がやさしくバードを受け入れてくれたからだった。そんな火見子に接してバードは、「悪い手がつづくトランプ遊びからちょっと降りるように、しばらくこの世界から降りてみたい」と思ったのだったが、そのうちに、火見子を相手にセックスしたいと欲望するようになる。もし火見子がそれを拒んだら、彼女を殴りつけて失神させてでもセックスする決意をする。

しかしそれは杞憂だった。火見子はバードを受け入れてくれたのだった。それもバードが正常位でのセックスが不能とみるや、自分のもうひとつの穴を提供してまで、バードのゆがんだ欲望を満たしてくれるというやさしさまで火見子は示してくれるのだ。そんな火見子に接してバードは思うのだ。「おれはいま女をもっとも汚辱に満ちたやり方で蹂躙しているのだ・・・おれは、ありとある最も卑劣なことをやってのけられる人間だ、おれは恥のかたまりだ、おれのペニスがいまふれている熱いかたまりこそがおれだ」と。

火見子に受け入れてもらったことで、バードは精神の平衡を取り戻す。そしてこう言うのだ、「きみはぼくをなぐさめるね」と。それに対して火見子は、「そうよ、バード。あなたは、今度のことがはじまってから、まだ誰にも慰められていなかったのじゃない? それはよくないわ、バード。こういう時、いちどは過度なくらいに慰められておかないと勇猛心をふるいおこして混沌から抜け出さなければならない時に、ぬけがらになってしまっているわ」

つまり火見子は、人間というものは場合によっては他の人間の助けを借りなければ正しく生きてゆけないと言っているわけだ。バードはそれまで時分の陥った穴ぼこは自分一人だけの孤絶した穴ぼこだと思い、そこでは誰からも慰められるなどとは到底思えなかったのだったが、人間はそういう時にこそ、他人からの慰めを必要としていると火見子は言っているのだ。慰めは癒しと言ってよい。人は他人から慰められることで、癒しを覚え、その癒しを糧にして、人間として再生できるのだ。だからバードの体験しつつあることは、他者によって共有されねばならないし、またされることができる。火見子自身が、自分がバードの体験を共有したいと申し出ているわけである。

そんな火見子に慰められ、癒されて、バードは「自分がいまひとりぽっちでなく火見子とともに夜を過ごしていることに、思いがけない深さと激しさの力づけを見出した。バードが大人になってからそのように他人の力を必要としたことははじめてだった」

こうした状態は、バードが一方的に火見子から期待するものであり、また火見子が無償で与える限りにおいて、片務的な犠牲のようなものと言ってよかった。そのことに対してバードはひけめのようなものを感じる。「おれはなぜ理由もなくそのような絶対的権利を確信していたのだろう」と。そして火見子に向かって、「考えてみれば、ぼくにはきみのベッドに寝て、きみのつくる食事をたべ、それになにかときみを拘束する正当な理由がひとつもないのに、きみの家でまったく寛いだ気持でいたんだ」と言うのである。

その言葉を火見子は受け流す。彼女は無条件にバードを受け入れているからだ。彼ら二人はまったく一体となった気持を楽しみ、その楽しみはセックスによって強化される。「バードたちの性交にはすでに日常的な静謐と秩序の感覚が根付いていて、バードは火見子ともう百年も性交をつづけてきたような気がした。バードにとって、いまや火見子の性器は、単純で確実で、そこにはどのように微細な恐怖の胚芽もひそんでいない。それは<なにやらわけのわからぬもの>ではなく、柔らかな合成樹脂でつくったポケットのように単純な物そのものだ。そこから妖怪があらわれてかれを追いつめるというようなことはありえないだろう。バードは深く安堵した」

しかしその安堵感はバードに火見子との二人だけの生活を続けさせることにはつながらなかった。バードは突然倫理的に目覚め、息子に対する親としての責任感と、世界に対する自分の人間としての責任感に打たれるのだ。それはバードが自分が陥っていたと思っていた穴に、世界に通じる通路を見出した結果であるのだが、それを見出すきっかけを火見子が作ったのだった。だから火見子は、自分のバードに対する慰めあるいはいやしが、自分からのバードの離反をもたらすことに気が付くべきだったのだ。もし気が付いていたら、火見子にはもうすこし別のやり方があり、バードを失わずに済んだかと言えば、かならずしもそうはならなかったかもしれない。

しかし火見子にとっては、バードを失うことは強い打撃を意味した。彼女は彼女なりにこの世界との間で問題を抱え、その解決のためには他人を必要としている境遇にあった。その必要な他人にバードがなりつつあったのである。こうして彼らは互いに慰めあい、癒し癒されあう関係にあったのである。その関係をバードが一方的に壊した。壊したバードは世界との間にもういちど強固な関係を取り戻すことができるかもしれない。しかし壊された火見子には救いは残されていないように見える。

彼らの関係は、最初はバードにとって都合のよい片務的な関係として始まったのだが、最期もやはりバードにとってだけ都合の良い片務的な関係で終わってしまうようである。それゆえこの物語は、男が自分を取り戻す話であって、男と女との融和、あるいは和解をテーマにしたものにはなりえていない。






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