サクリファイス:アンドレイ・タルコフスキー

| コメント(0)
tarkov06.sacri5.JPG

アンドレイ・タルコフスキーの遺作となった1986年公開の映画「サクリファイス」を、彼はスウェーデンで作った。1983年にイタリアで「ノスタルジア」を作った後、実質的な亡命状態で外国に住み続けていたのだったが、外国での二作目をスウェーデンに作ることになったわけだ。どのような理由からかはわからない。

スウェーデン映画であるから、俳優もスウェーデン人だし、言葉もスウェーデン語だ。内容的にも、スウェーデン人が好みそうな題材を扱っている。筆者は必ずしもスウェーデン文化に詳しいわけではないが、それでも、たとえばイングマル・ベルイマンの宗教的な映画を見ると、スウェーデン人には独特の宗教心が根付いていると感じさせられる。そうしたスウェーデン人の宗教的な感性が、この映画からも感じられる。

この映画は、ひとことで言えば、スウェーデン人にとっての、この世の終末の風景を先取りして描いている。その描き方は、タルコフスキー一流のものだが、ヨハネの黙示録を思わせるような、ステロタイプな部分もある。しかもその終末の風景が、核戦争のイメージと密接に結びついている。と言うわけでこの映画は、核時代において人類、それはとりあえずスウェーデン人だが、その人類に向かって黙示された終末のイメージを描いているといってよい。

この映画にはもうひとつ宗教的な要素がある。それはタイトルにもある「サクリファイス」つまり犠牲のことだ。この言葉ははじめ、郵便配達の男が主人公のアレクサンデルに向かって言うのだが、後にはそのアレクサンデル自身が口にするようになる。彼は核戦争によって危険にさらされた自分自身や家族の命を救うために、彼が魔女と信じた女の力を借りるのであるが、その代償として自分の家に火をかけ、家を燃やし尽くすことで、救済へのサクリファイスにしようというのである。

筋書きらしいものはほとんどない。タルコフスキー一流のゆったりとした心理劇のようなものである。その心理劇は言葉によって演じられる。言葉は独白であったり、呼びかけであったりするが、言葉を交わすもの同士にはほとんど心のつながりがない。したがってこの映画は、登場人物のそれぞれが、勝手に自分の心中を独白しあうというような不思議な印象を見る者に与える。

映画の舞台は、海辺の小さな家である。その家に家族や親しい友人たちが集まって来る。主人公アレクサンデルの誕生を祝うために。メンバーは、アレクサンデルとその妻及び小さな息子、娘とその愛人、友人の郵便配達人、そして二人のメイド、マリアとユリアである。彼らの心は互いに通じ合っていない。とりわけ妻は夫に絶望し、娘の愛人に色目を使っている。そんな状態で、かれらはパーティを開こうというのだが、その時にテレビの映像が、核戦争が勃発したことを報道する。その報道に接したメンバーは、それぞれパニックに陥る。一番ひどいパニックだったのは妻だ。その妻のパニックをなだめるために、娘の愛人が鎮静剤を注射してやる。

夫のアレクサンデルもまたひどいパニックに陥るが、そのかれに郵便配達人が不思議なアドバイスをしてくれる。メイドのマリアは実は魔女なのだが、彼女には絶大な力があって、彼女と寝ればどんな災厄からも逃れられるというのだ。その言葉を信じたアレクサンデルは、自転車でマリアの家を深夜に訪れ、彼女に救済を乞う。するとマリアは彼の求めに応じて、抱いてやるのだ。

このシーンが、現実のことだったのか、それとも夢の中の出来事だったのか、映画は明かさないのだが、いずれにしてもマリアに抱かれたことで、核戦争が勃発したという事実は夢のように消えていた。つまり彼と彼の愛する者たちは、マリアを通じて、神によって救われたのだ。そのことに感謝したアレクサンデルは、神への感謝のしるしとして、犠牲をささげる。その犠牲とは、彼らの住んでいた掛買いのない家だった。映画はアレクサンデルが自分の家に放火し、その家が炎上するシーンを写しながらクライマックスを迎える。

ラストシーンでは、アレクサンデルの小さな息子が出てきて、日本から来たと言う木に水をやるシーンが出て来る。この木は映画の冒頭で、アレクサンデルとその息子が二人で植えたものだった。その際に父親が、以後三か月間毎日この木に水をやらねばならないと言った言葉を、小さな息子は忠実に実行していたのである。一仕事終えた息子が言う、「はじめに言葉があって。でもなぜそうなの、パパ?」

こんな具合にこの映画には宗教的なモチーフが幾重にも込められている。ヨーロッパでは大変な評判をとったというが、それはヨーロッパ人の宗教好きが働いたせいだろうと思う。

なお、この映画は主人公の日本趣味を強調しているのだが、そのひとつの現れとして、家を炎上させるときの主人公に和服のようなものを着せている。「のような」というのは、本物の和服とはかなりずれた一物だからだ。






コメントする

アーカイブ