学海先生の明治維新その七十九

| コメント(0)
 旧佐倉藩士依田学海をめぐるこの史伝体小説はついに明治十年にたどり着いた。以前にも書いたように、小生はこの小説を明治十年まで書き継ぐつもりでいた。その目標としていた年についにたどり着いたわけである。この年は言うまでもなく西南戦争が行われた年である。この戦争には学海先生も異常な関心を示し、先生のこの年の日記はもっぱらこの戦争への言及で満たされている。先生がそれほどまでこの戦争にこだわったのには、それなりの理由があると思う。この戦争は武士階級の存在意義というものが根本的に否定されて、天皇を中心とした新たな国づくりが始まる結節点に位置する。それゆえこの戦争は、一つの時代の終わりと新しい時代の始まりを画すシンボルのようなものでもある。武士として生まれ、武士としての心情を生涯持ち続けた学海先生にとっては、この戦争は自分のアイデンティティにかかわるものだったのであろう。
 そこでこの小説の最後の数ページを、小生は学海先生の日記を追いながら書いていきたいと思う。その日記の内容は先述したように、もっぱら西南戦争への言及で占められている。先生は西南戦争の勃発から終結に至るまでの間のことを、まるで新聞の特派員のような心意気で詳細に記述し、それについての自分自身の感想を述べている。つまり先生の日記は西南戦争についての一つの体系的な解説になりえているのである。
 先生の日記の紹介に取り掛かる前に、西南戦争の背景について若干のことを述べておきたい。
 西郷隆盛は征韓論争に敗れて鹿児島に引っ込んだが、その後桐野利秋や篠原国幹らとともに私学校を起こして、鹿児島の青少年たちに教育を施す一方、彼らを軍事的に訓練した。学校とはいっても、普通の学校とは異なり、ある種の軍隊のようなものだったのである。つまり旧薩摩藩の武士団を引き続き軍事的に維持しようとしたわけである。
 西郷は又、鹿児島県令に旧薩摩藩士大山綱良を当てたほか、県の役人には一切他県人を入れず、私学校の幹部を当てた。これは県令は旧藩とは関係のない人物をあてるという新政府の方針を無視したものだった。
 更に旧薩摩藩からあがる税収は中央政府に収めず、もっぱら私学校を中心とする旧薩摩藩の統治のために使われた。そこでは地租改正は行われず、士族は依然として刀を帯びていた。徳川時代とほとんど変わっていなかったのである。
 つまり西郷は、旧薩摩藩の領域を中央政権とは無関係の独立政府のような体裁に仕上げていたのである。
 これは誰が見ても明治政府への挑戦だった。かつての西郷の盟友で、いまは明治政府の独裁者となった大久保は、自分のメンツにかけてもこれを放任することはできなかった。いずれ西郷を叩き、鹿児島の治外法権を除き、明治国家の一部として名実ともに繰り入れなくてなるものか。そう決意していた。西南戦争は西郷のほうから仕掛けたというのが主流の見方になっているが、実は大久保の方から挑発して、西郷を決起に追いやったというのが真相なのである。西郷としては、好んで政府とことを構える気はなかった。まともに考えれば、一鹿児島県が日本政府を相手に戦えるわけがないのである。だから政府が鹿児島県を大目に見て、余計なおせっかいをしなければ、自分のほうでもおとなしくしていよう。そう西郷は考えていた。しかしそれは甘い考えだった。大久保が体現する明治政府の権力がそれを許せるはずはなかったのである。
 大久保は西郷を挑発しよとしていくつか手を打った。
 まず、明治九年十二月に中原尚雄はめじ鹿児島出身の警察官を鹿児島に送って、現地人を相手に私学校党に与しないように説得させた。また、翌明治十年一月に、鹿児島に蓄えられていた兵器・弾薬を大阪へ運び出させようとした。このことは私学校党をいたく刺激した。特に兵器・弾薬を取り上げようとするのは、政府のあからさまな挑戦であるとして、受けて立って決起すべきだとの激論を生じさせた。
 西南戦争の直接の引き金になったのは、この兵器・弾薬をめぐる事件である。西南戦争をめぐる学海先生の記録は、この事件への言及を以てはじまるのである。
「去月三十一日とやらん、海軍省より薩州桜島の砲台に蓄へたる火薬をとらんとて、その手の将官蒸気船をもてその地近くこぎよせしに、いづくともなく数多の兵士数艘の船にのりて出来り、将官を中にとりこめて火薬をとり去ることをゆるさず、終に半積とりたるを尽くもとの如く積もどせしとぞ。かかりければ、かの将官は命からがら船に乗りて神戸の港にかへり来りてよしを陳ぜしかば、朝廷には林内務少輔・川村海軍大輔をつかはしてこれをさとしめんとせしかど、
 かの国の士族は敢てきかず、両氏をとどめて国に入ることをゆるさず、空く京師にかへりたりといふ。かの士族は学校党とて、その数二万にあまりたる少年どもなり」
 いきりたつ私学校の連中に対して西郷はなだめ役に回った。
「西郷はこれをききて、そはけしからぬ事なり、肥前の江藤、長州の前原すでによしなき戦を起して、その身はいふもさらなり、いくそばくの人を誤り、叛名を後の世までも流したるにあらずや、思ひとどまり候へと、言を尽くしてさとせしかど、さらにきき入べふもあらねば、西郷はもてあましけん、身をかくして何処ともなく失せたりとぞ」
 西郷がなだめたにかかわらず、私学校党の怒りは収まることがなかった。西郷はその剣幕に折れて、自分の命は諸君にあずける、好きなようにするがよいと言うのである。
 これと前後して、私学校党は中原尚雄らを捕らえて政府が西郷の暗殺を企んでいると白状させた。それについても学海先生は触れている。
「西郷等が凶党を聚合せしありさまをみるに、警部中原尚雄等いくたりか警視庁の密旨をうけて、西郷が近日の形状をさぐらせたりとききて、忽ちこれをとらへきびしく拷問し、その視察に来りしといふを刺殺に来りしと白状をあらため、我輩罪を天朝に得ることなきに、奸吏等命を矯めて刺客を行はんとす・・・さる事あらんには此国の人民等が死をもてこれを防ぐべきものなりとて、我も我もと集まり来ること雲霞の如く、一両日がうちに数千人に及びぬ」
 こんなことが重なって鹿児島の私学党は反政府の直接行動に立ち上がらざるを得ない状況に追い詰められていったのである。
 こうした状況を学海先生は主に諸新聞を通じて把握したのであったが、修史局の同僚には重野安駅はじめ薩摩の出身者も多く、彼らからも情報を仕入れていた。その情報提供者の一人に堀口章介という者があったが、その堀口が薩摩内の政治的な対立が今度の事態に大いに働いていると分析してくれた。
 この堀口は長州人による蛤御門の変の際に先頭に立ってその弾圧に功を挙げ、また薩英戦争の際にも砲台を守って勇敢に戦ったということだった。薩摩内の武闘派に属するわけである。その彼が、今般の事態を嘆きながら、それが薩摩内の派閥の対立に根差していることを指摘したのである。
「薩摩といえば、大久保卿も薩摩の人、その大久保卿は政府を代表して薩摩の西郷殿を討とうとしております。薩摩の人々は一枚岩ではないようですな」
 そう学海生が話を向けると、堀口は、
「さよう、同じく薩摩人と言っても、在京派と在国派とでは水と油の如く相いれない考えを持っております。在国派は桐野を始め武断派といってよろしい。彼らは士族の誇りにこだわっております。一方在京派は、士族の特権にはこだわらず、広く人材を求めて新しい政体を作ろうと考えておる。在京派の頭目は大久保で、彼らは在国派を罵って愚頑と言い、また在国派は在京派を武士の心を失った変節漢だと言って罵って居る。この対立は根深いものじゃによって、一方が他方を完膚なきまでに圧しさらねば、収まりそうもござらんのじゃ」
「それはまた大変な事態でありますな。すると今回は大久保卿の政府が西郷勢を粉砕するまで止まぬと言うことになりましょうか?」
「そういうことになりましょうな」
「なにやら大変な戦になりそうな気配ですな」
「西郷どんが勝つとは思えませんが、しかしそんなに簡単に敗れるとも思えぬ。桐野や篠原などと申す者らは武勇の士として聞こえており、そうたやすく敗れる者ではござらぬ。おそらく甚大な損害を政府軍に与えるでありましょう」
「我が国にとって、それが望ましいとも言えますまい」
「さよう、西郷どんの名声を思えば、西郷どんのその名声を梃にしてもっと違った収め方もあったのではないかと薩摩人の間では残念がる意見もござる。中には、今回は大久保が西郷どんを追い詰めたといって、大久保を責める者もござる」
「大久保卿は権謀に優れた方のようじゃから、いまひとつ人気がありませんな。かえって西郷さんに世間の同情が集まっておるようです」
「久光公はかつては西郷どんを忌み嫌っておりましたが、いまでは大久保のほうを嫌っているそうです。その理由はわかります。廃藩置県を断行したのは大久保です。久光公は廃藩置県の後でも自分が鹿児島県の当主でいられるものと大久保から説得されて廃藩に同意したのに、その約束が破られた。つまり大久保に騙されたといって憎んでおられるのです。無理もないことでござる」
 ともあれ西郷の周辺には俄かに戦争の気配が濃厚に漂うようになった。






コメントする

アーカイブ