折口信夫の琉球宗教論

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折口信夫は小論「琉球の宗教」において、琉球の宗教を概括的に論じている。彼の主張の眼目は、琉球神道と内地の神道の類似性を指摘することである。琉球の神道は内地の神道の一分派だとも言っている。その理由について、折口は例によって組織立っては説明してはいないが、ヒントになるようなことは言っている。いまそれを列挙して、琉球と内地の神道の類似性と折口が考えているらしいことを見てみたい。

まずは霊魂観の共通性である。沖縄では霊魂をまぶいとかまぶりとかいうが、それは人間の霊魂が外在していて、多くの肉体に付着すると考えていることである。これは、折口自身は触れてはいないが、シャーマニズムに共通した考え方であって、そのシャーマニズム的な霊魂観を琉球は内地と共有しているというのであろう。

第二に楽土あるいは浄土観。琉球では楽土はニライカナイと言われる。それは海上はるかなところというのが原義だったが、地上のある場所やあるいは天上をもさすようになった。内地の神話で言う高天原も、柳田国男によれば、もともとは海上遥かなところと観念されていたものが、天上の世界と観念されるようになった。両者とも同じメカニズムが働いているわけで、そこに我々は琉球と内地との間の楽土観の共通性を読み取ることができる。

第三に、琉球では神々を天神と海神とにわけるが、これは内地の神話で神々を天つ神と国つ神とに分けるのとほぼパラレルな現象だ。折口は琉球の神のもっとも大きな特徴、つまり内地と比較して異なる特徴として、琉球の神々は時々出現することだと言っている。しかし、この場合に神がいったい何をイメージしているのか、折口は明確にしていない。巫女に体現されるような身近な神なのか、それとも天神といわれるような高級な神なのか。

その辺については、柳田の説明はずっと丁寧である。柳田は祖先がそのまま神になったような身近な神について、その神と人々との交流について考察し、日本の土着宗教の本質は祖先崇拝にあると断じたうえ、そうした神と記紀神話に現われるような神との差を強調していた。それに対して折口の場合は、身近な神も民族全体の幽遠な神もいっしょくたにしているきらいがある。

第四に天地創造神話の琉球と内地との共通性である。琉球ではアマミキョ・シネリキョという男女一対の神が琉球の島々を創造したことになっているが、これはイザナギ・イザナミの男女二神が日本列島を創造したとする内地の記紀神話と対応する。

第五に太陽崇拝である。内地では太陽神としての天照大神の役割が甚大であるが、琉球においても、主神は御日の御前であり、やはり太陽神である。そして国王を天加那志と言い、日の御子と観念しているところも内地と共通している。

以上琉球と内地との間には、多くの共通性があるのだが、もっとも甚だしいのは、両者ともに巫女の役割が非常に大きいことだ。折口はそれを巫女教と呼んで、琉球も内地もどちらも宗教に果たす女の役割が絶大であることに注目している。

琉球では、巫女は神の依り代とみなされるばかりではなく、神そのものとして拝められる。したがって巫女が死ぬと、そのままに神としての位置づけが与えられる。そうなるのも、琉球の宗教が女性中心に営まれてきたことを反映しているのだと折口は考えている。

その巫女の間にも階級差があるようで、ノロは上級の巫女、ユタは下級の巫女ということらしい。いずれにしてもこれらの巫女が琉球の宗教を実質的に動かしているわけである。

巫女は死ねば神になると言ったが、普通の人の場合には、死後七世をへてようやく神になる。それは一族にとっての祖先神としての位置づけで、これは内地におけるご先祖様としての神と共通するところだ。

ともあれ、この小論における折口の推論は、あまり厳密ではないが、一応琉球各地の具体的な事象をもとにして、実証的にすすめようとする意欲を見せている。折口はこの小論を柳田の観察点を発足地としたといっているから、柳田の到達したところを自分にとっての出発点として、その仮説を裏付けるような事象を、広く求めたということだろうと思う。






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