われらの狂気を生き延びる道を教えよ:大江健三郎

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「われらの狂気を生き延びる道を教えよ」は、「ぼくは詩をあきらめた人間である」という文章から書き始められる。その詩をあきらめたらしい人間、それはこの小説集の編者の位置づけだと思うのだが、その編者らしい人間が、自分自身「詩の如きもの」と称するものを披露し、この小説集はその「詩の如きものを核とする」三つの短編小説と、ブレイクとオーデンの詩を核とする二つの中編小説からなっていると宣言している。宣言と言うのも、この小説は上述の五つの中・短編小説のほかに、「なぜ詩ではなく小説を書くのか、というプロローグと四つの詩の如きもの」と題する短文を収めており、全編の冒頭に置かれたその短文のなかで、この小説集を書いた動機に触れているわけであるが、その触れ方と言うのが、記述と言うより宣言を思わせるものだからだ。

この五つの中・短編小説は、それぞれ独立した話であり、相互につながりを持たない。しかなんとなく共通した雰囲気をもっている。それは、編者自ら認めている通り、どの作品にも狂気がテーマとして込められていることだ。だいたいこの小説集の総題が「われらの狂気を生き述べる道を教えよ」となっており、それはとりあえず第五作品の中のフレーズを援用したということになっているが、他の作品にも狂気が色濃く漂っているのである。

大江はなぜ、この五つの小説で狂気について強くこだわったのだろうか。この小説にはもうひとつ、前作である「万延元年のフットボール」の余韻が感じられるという共通性があるのだが、「万延元年」においては、狂気は作品の終わりで暗示されていたものを、この諸作品において顕在化させたというように伝わって来る。それにしても大江がなぜ、狂気に強いこだわりをみせたのか。そこは作品自体に即して読み解くほかはないようである。

冒頭の短文のなかで、いくつかの詩と四つの詩の如きものが収められているが、それらは一読して異様な感じを読む者に与え、読者はそこにある種の狂気を感じるはずだ。たとえば次のような詩、
  腹と背にブルーのストライプをひくと
  処女膜瘢痕は鮮血色の星型だ
ここには、人間の自由な想像力が盛られていると思わされるのだが、人間の想像力は狂気と紙一重なので、読者はやはりそこに狂気を認めざるを得ないのである。

「ぼく自身の詩の如きものを核とする三つの短編小説」と題した第二部は、「走れ、走りつづけよ」から始まるのだが、この短編小説は、上に引用した詩を含め、「四つの詩の如きもの」のうちの二つを核としている。この小説におけるもう一つの核は次のような詩である。
  棘皮動物を裏返す しかも
  表にオレンジ色の肉があり
  内側に黒紫色のトゲが蝟集する
  逆さまのウニを なおも裏返す

これらの詩を読んだ限りでは、この小説がどのような意味でこれらの詩を核としており、またこれらの詩が小説の本文とどんなかかわりがあるのか、俄にはわからないだろう。いや、注意深く読んでも、わからないままかもしれない。というのもこの小説の本文は、語り手であるぼくと、その従兄との精神的な関わり合いを描いているのだが、その関わり合いが狂気への恐れを核としていると言うこと以外、小説本文と死とのかかわりは認められないのである。

実際この短編小説は、狂気に対する恐れからなっている。語り手のぼくも、ぼくの従弟も、狂気への恐れを抱いているのだが、その理由は、二人の共通の祖父が狂気のうちに死んだことと、別の親族である他の従弟がやはり狂気にとらわれたことにあった。その狂気と、ぼくは非常に親縁であることを恐れるのだが、従兄のほうは、狂気とは無縁を装っている。この従兄は、社会のおちこぼれらしい僕とは違って、エスタブリッシュメントをめざしており、またその能力もそなえているように見えた。その従兄がぼくより先に狂気に陥り、スキャンダルな行為をしたあげくに、下半身を滅茶苦茶にして、自分自身を社会から隔絶してしまうのである。

この従兄がなぜそんな狂気にとらわれたのか。小説は明確な理由を示してはいない。ただ従兄の異常な行動を、それがごく自然にかなっているといった具合に、淡々と描写するばかりである。そこにこの小説の気味悪さと言うか、味わいがある。

二つ目の短編小説は「核時代の森の隠遁者」と題しているが、これは「万延元年のフットボール」の後日譚という形をとっている。部落の菩提寺の寺の坊主が、アフリカへ行っているはずの「きみ」に呼びかけているという設定だが、坊主に「きみ」と呼びかけられているのは、「万延元年」の語り手である「僕」なのだ。「万延元年」の「僕」が単身アフリカへ出かけたこと自体が狂気じみているが、そのまま谷間に残って隠遁の生活をしている坊主はもっと狂気じみて見える。坊主は女房が男をこしらえて自分を捨てたときにも怒らなかったが、その女房が二人の子どもを連れて谷間に戻って来た時にも、怒らずに寛容な気持ちで受け入れた。だがそれは心の広さからと言うよりは、心が破綻していることの現れであって、そういう意味ではある種の狂気にとらわれているのだ、というふうに伝わって来る。

というのも、姦通された若い住職という滑稽劇中人物の役割を演じて来たこの坊主は、戻って来た妻が、「私ハモウ厭ラシイ性生活ガデキナイヨウニ、病院デアスコヲ網ノヨウニ縫ッテモラッタカラナ。絶対ニ私ノ躰ニサワルナ」と言われても、何ら言うべき言葉を持たないからだ。それればかりではい、妻が連れ子の娘に坊主が悪さをしているのではないかと嫌疑をかけても、坊主はその嫌疑を晴らすべき行動を何ら取ることがないのだ。

そのうち不吉な出来事が起る。谷間の人々が次々と谷間を捨てて外部へ去り始めたのだ。「万延元年」でも出て来た隠遁者ギーが、不可解な死に方をしたのがきっかけだった。次々と人が去り行く中で、この坊主だけは最後までここに残り続けることを決意する。何故なら、核時代にあって真に安全な場所は、森の奥深く以外にはありえないと考えるからだ。坊主は次のような詩の如きものをつぶやきながら、自分のその考え方を正当化する。
  核時代を生き延びようとする者は
  森の力に自己同一化すべく ありとある市
  ありとある村を逃れて 森に隠遁せよ

かくして坊主は、「自分自身は、あいかわらず谷間にとどまって掘立小屋に住み、未来永劫にわたって欲求不満であるだろうところの有機質貞操帯保持者たる妻に嫌味をいわれ、子供たちからは幼女強姦の常習者あつかいで警戒されながら暮らしているわけだ」ということになる。

三つ目の短編小説「生け贄男は必要か」は、人肉を喰ってしまった男のトラウマを描いたものだ。この男が人肉を喰ってしまったのはまだ物心がつかない年ごろのことだった。敗戦直後、孤児となった男は他の孤児たちとともにある復員兵に引き取られて、山の中の堀立小屋で共同生活をしていたのだが、そのうち食料が欠乏して子どもたちに飢えがせまると、復員兵は自分の肉を子どもたちに食わせたのだった。その肉を食った子供の男は、心に深いトラウマを抱えるようになる。そしてそのトラウマから自由になるためには、自分自身が自分の肉を子どもに食わせる以外方法はないと思いつめる。それにはしかし必然性が必要だ。世の中が乱れに乱れて子供たちが深刻な危機に直面したときに、自分が生贄となって子供たちに自分の肉を食わせ、そのことで危機を乗り越える可能性がある場合だけだ。

そこで男は次のような言葉でおわる、奇妙な詩の如き文章を、繰り返し唱えるのだ。
  教えてくれ、すでに子供たちの豊かな明日のためには
  生け贄男が必要なまでに、「悪」は現世をみたしているのか?
  教えてくれ、もうすでに生け贄男は必要なのか?
  もう私は、食われなければならないか?

こんな具合に、これら詩の如きものを核とする三つの短編小説は、それぞれ狂気を内在的なモチーフとしている。もっともその狂気の質や、それが主人公たちをとらえるに至った事情は異なる。しかしそれだからこそ、この世には狂気が偏在していると思わせられるような仕掛けを、読者はあるいは感じ取ることができるかもしれない。







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