依代としての幣束・だいがく・屋台:折口信夫のまつり談義

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まつりには屋台とか神輿がつきものだが、折口信夫はそれらが日本古来の信仰行事に由来していることを明らかにしようとする。折口によれば、こうしたものは、神の依代であるということになる。屋台やだいがくに神が降臨し、その神を人間たちが仰ぎ奉る。この構図は、幣束にもあてはまる。幣束とはもともと、神が目標とする依代だったというのが折口の主張である。したがって日本のまつりは、古代から一貫して、この神をお迎えして、仰ぎ奉るということを本質としていたということになる。

まつりと神社とは深い結びつきがある。まつりはだいたい神社が主催し、氏子たちが盛り立てるものである。というより、氏子たちが祭の執行者なのであり、神主はそれを側面から指導するというのが本来のあり方だったのだ。その場合に、神社がまつっている神が問題になるが、ほとんどのまつりは、神社がまつっている神をストレートにまつるという形をとらない。ということは、神社は特定の神をまつるといっても、神はそこに定座しているわけではないのだ。神は、まつりの時期に外からやって来て、神社の氏子たちに迎えられるのだ。その場合に、神がこの世に降臨するための依代が問題となる。神は依代に降臨し、人間たちに迎えられるのである。

屋台とか神輿というものは、基本的には神がこの世に降臨するための依代であった。この依代に降臨した神を人間たちがお迎えして、自分たちの集落や神社を練り歩く。その場合、人々は依代を引きまわすか担ぐかのいずれかになる。引きまわす代表は屋台であり、担ぐ代表はだいがくとか神輿になるわけである。

だいがくは、現在の関東はじめ東日本ではほとんど見られないが、関西ではいまでも盛んに担がれているようだ。人々が担ぎやすく丸太で台座を作り、その中心部に心棒を立て、その心棒の先端にだしとか髭籠とか呼ばれるものをつけ、中間部にはだいがくとよばれる額状のかざりや沢山の提灯を取り付ける。これを数十人のひとびとが担ぎまわるのである。

だいがくの構造上の最大の特徴は長大な心棒である。これは神が降臨しやすいことをめざしたもので、心棒の先端のだしとよばれるものは、神が降臨する時の目印となる。この構造は京都の祇園祭における山とか鉾にも共通している。山も鉾ももともと長大な心柱とその先端のだしを構造上の中核としていたのである。こうした構造上の特徴を折口は標山といっている。標山とは神が降臨するさいの目印となる高い山というのが原義であるが、それが山とか鉾とかだいがくに転じたわけである。

依代となる目印がだしと呼ばれたのは、出し物から転じたのだろうと折口は言う。屋外に出しておいて、神を招き寄せるものであったに相違ないというのだ。この依代としては、だしのような無機物ばかりではなく、人間があてられることもある。というより、そのほうが原始の姿に近い。神が依代としての人間にとりつくわけだ。人形が人間の代わりに用いられるのは自然なことだ。現在も多くの祭の練り物に付随している人形は、たんなる飾りではなく、依代としての意義をもっていたのである。

盆踊りはまつりの変形と考えてよい。この踊りはだいたい円形になって踊るが、それは神の依代を中心にして、それをお迎えする喜びを表現したものだ。つまり神の御柱回りの意義を帯びているわけである。

神をお迎えするための依代は、まつりの練物以前にも多く指摘できる。折口がその例として挙げるのは、火消しの時に使われる纏とか、武士たちが旗印として使った様々な形態の旗指物である。幟はこの旗指物から出て来た。いずれも、神の降臨を望んだもので、武士たちは戦いの勝利へ向けて、火消したちは消化の成功へ向けて、神の加護を願ったのである。

幣束も又もともとは神の依代であったというのが折口の主張である。折口は幣束から今日の祭の練物にいたるまで、日本人と神とのかかわりが、こうした形で連綿と受け継がれて来たと考える。






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