白痴の子と世界の終わり:大江健三郎「洪水はわが魂に及び」

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大江健三郎は「個人的な体験」においてはじめて脳に異常を持って生まれて来た息子を正面から取り上げたが、それは多分にそんな息子と向き合う父親の悩みに寄り添った内容のものだった。ところが「洪水はわが魂に及び」では、息子の視線に寄り添う姿勢を見せている。もっともそんな息子を大江の分身らしい大木勇魚は「白痴」と呼んで、かなり屈折したところを見せてはいるのだが。

ジンと名付けられたその子を連れて大木勇魚が核シェルターに隠遁したのは、核戦争によって破壊しつくされた世界を、人類最後の生き残りとして見届けるためだった。その人類最後の日に白痴の息子であるジンが「世界の終わりですよ」と言うのを聞きながら、自分と息子とがその世界の終わりに立ち会っている実感を得たくて、大木勇魚は息子を連れて核シェルターに隠遁する決意をしたのである。

かれがジンをつれて核シェルターに隠遁する決意をするについては、もうひとつ理由があった。ジンは父親が白痴と言うとおり、人間との間で正常なコミュニケーションがとれない。それに加えて、意識的にか無意識にか、自殺願望を疑わせるような行動をする。食べたものを吐き出したり、不自然な転倒を繰り返すことで自分の身体を痛めつけたりする。そんなことを今後も頻繁に繰り返していたら、そのうち重大な損傷を蒙って命取りになるに違いない。だから父親としては、白痴の息子が情緒的に安定し、自殺的な行動を抑制させるためにも、二人だけで人間世界から遠ざかり、孤独な空間で一緒に暮らすことを決意したわけだ。二人だけで満たされた孤独な空間で、始終息子に寄り添っていれば、息子の異常な行動をやめさせることが容易だろうし、父親に頼り切って生きている息子にとっても快適だろうと思ったのである。

実際ジンと二人きりで核シェルターのなかで暮らすようになって、かれは息子の動静に細心の注意をすることができるようになり、おそらくそのことが功を奏したのだろう、ジンは情緒的に安定した。なにか変わったことが起きると、そこには父親がいて、かれを恐怖から守ってくれるからだと思う。要するにこの親子は、世間から孤絶した核シェルターの中で、ふたりだけの濃密な空間を、身を寄り添いあいながら生きることができるようになったのである。

ジンはコミュミケーション能力が未熟で、言語能力も低く、また目が極度の弱視であるために、対象の認知機能も持ち合わせていない。要するに視覚的・知性的な能力がほとんど発達していないわけだ。だがひとつだけ長所を持っている。鋭い聴覚だ。その鋭い聴覚は、鳥や自然の音を、微細な差異まで弁別することができるほど優れている。その鳥の声を録音したものを、勇魚はジンに始終聞かせているのだが、それは聴覚の能力を延びさせる効果とともに、ジンを情緒的に安定させる効果を発揮した。そのためジンは鳥の声を聴いている時には情緒が安定し、その安定した情緒をもとに、鳥の声の差異についての弁別能力をみがいてもいるのだ。ジンが弁別できる鳥の声は五十種類にのぼる。そんなに多くの鳥の声を聴き分けられる健常者はそうざらにはいない。

普通の人には到底弁別できない鳥の声の微妙な差異をジンは見事に聞き分けるのである。そしてそのたびごとに、「センダイムシクイですよ」とか、「キジバトですよ」とか、「アカショウビンですよ」とか言って、父親の勇魚に教えては自分自身も満足感にふけるようなのである。

そんな息子に対して大木勇魚は、つねに保護者として寄り添っていなければならぬという脅迫のようなものを感じているのだが、その脅迫感情は意外にあっさりと乗り越えられる。ジンが自分以外の人間に、信頼感のようなものを示したのだ。その信頼感はいままで父親に向けられてきたものとほとんど同じようなもので、その信頼感が父親以外のものに向けられている限り、ジンは父親の制約から自由になれる。つまり自立する可能性を得るのだ。

ジンが信頼を寄せた相手は、自由航海団のただひとりの女性である伊奈子だ。伊奈子は未成年で、大木勇魚は彼女のことを小娘とも呼んでいるのだが、この小娘の伊奈子が意外と母性に富んでいるらしく、その母性にジンが反応して信頼を寄せるのだ。その信頼感覚は有無を言わせぬほど絶対的なもので、ジンは何の障害もなく彼女の存在を受け入れてしまう。彼女に頼まれて町の薬局迄出かけることになった勇魚が、自分の不在中ジンがパニックにならないように、気を落ち着かせようとする意図から、「ジンはおとなしく木の絵をみていますよ」と呼びかけたところ、「ジンは木の絵を見ています、ですよ」と、図鑑に見とれて、顔も上げずに言ったのだった。それは父親にかわって伊奈子がそばにいることの安心感からもたらされたものなのだ。

こうしてジンは、すこしずつ父親の勇魚から自立する傾向を見せる。いままで父親の不在の折にはつねに陥っていた精神不安から解放され、自立して生きる傾向を次第に強く見せるようになるのだ。そうした息子の傾向を父親のジンは複雑な気持ちで見守るが、その気持ちはどちらかと言うと安堵に近いものだった。というのも、今までは父親なしでは生きていけなかった息子が、父親が不在でも十分生きていける可能性を感じさせるからだ。

勇魚はやがて、自分の運命を自由航海団の運命に重ね合わせる決意をし、核シェルターの中に閉じこもったまま死んでゆく決断をするのだが、それは息子のジンが自分なしでも十分自立して生きていけるだろうという見込みが立ったからだ。その見込みがなければ、父親は自分自身の道を選び取る決断をしえなかっただろう。

そんなわけでこの小説は、父子の間の関係を描いているという面もある。その父子関係は、息子の父親からの自立という面と、逆に父親の息子からの自立という面も持っている。親離れと子離れはメダルの裏表のように密接に結びついているというわけであろう。

実際、どんな父親でも、子どもの自立を願わない者はない。ましてやもともと自立の能力に劣ると考えられる「白痴」のような子の場合、その子の自立を希求する父親の願いには切実なものがあるだろう。この小説はそうした切実な思いを表現したという面をも併せ持っている。それゆえこの小説は、大きな意味での父親としての自立をテーマにしたものだということができる。少年のイニシエーションならず、父親のイニシエーションをテーマにした小説というべきか。






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