武田雅哉「鬼子たちの肖像」

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読書誌「図書」(2019年1月号)に、中国文学者の武田雅哉が寄せた小文「熊さん八つぁん」がなかなか面白かった。これは、今年の干支であるイノシシを材料にして、中国文化の一端について考察しているものだが、その語り口が非常に洒落ている。そこで、この人の書いた本も面白かろうと思って、いろいろ探したところ、「鬼子たちの肖像」というのが目に留まり、読んでみた次第だ。

先日「鬼が来た」という中国映画を見たのだが、この鬼というのは日本兵をさしていた。この映画にかぎらず、中国人はいまでも日本人を鬼とか鬼子とかいうのだそうだ。勿論罵り言葉である。その罵り言葉を中国人がどのような歴史的経緯から用いるようになったか。それをこの本は説明している。

著者によれば、中国人はもともと西洋人について鬼子という言葉を用いていた。それが日本人にも拡大して用いられるようになったのは、満州事変以後のことだという。最初は西洋人がやってきて中国を侵略した。その侵略者を鬼と呼んだわけだが、西洋人に続いて日本人が侵略してくるようになると、日本人のことも鬼と呼ぶようになった。つまり鬼あるいは鬼子は、外からやってくる侵略者のイメージを帯びていたわけだ。

鬼子と呼ばれる前までは、日本人は倭奴と呼ばれていた。野蛮人という意味である。周辺の諸民族を野蛮人扱いするのは、中国の文化的伝統に根ざしていることで、なにも日本人だけが野蛮人扱いされたわけではないが、鬼子となると、日本人に対する中国人の強い思い入れを感じさせられる。

その強い思い入れが、どのような形で表現されたか、武田は、中国側の雑誌等を材料にとって、わかりやすい形で説明してくれる。それを読むと、文明の衝突の具体像が視覚的に迫って見えてくるので、なかなか刺激的だ。

この衝突にあっては、日本側は侵略者として、勝者の立場にあった。勝者というのは、敗者に対する思いやりというか、自分のしている行為についての自覚にとかく欠けがちだ。その欠けている部分が、敗者にとっては死活にかかわることになる。勝者がなにげなくしていることも、敗者には許しがたい侮蔑とうけとられる。そのちぐはぐさが、この本のなかから浮かび上がってくるような書き方になっている。

そんなわけでこの本は、日中関係の、未来をも含めたあり方について、深く考えさせてくれる。





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