われわれの子供ら:大江健三郎「ピンチランナー調書」

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「ピンチランナー調書」では、脳に重い障害を負う子供を持つ親たちの連帯が語られる。そこがこの小説が、重い障害を持った子どもとその父親との関係をテーマにしながらも、それ以前の作品と大きく異なるところだ。それ以前の作品では、一組の父子があって、その父親が脳に障害を持った子どもを庇護するという関係が語られていた。この作品では、親は子どもを一方的に庇護するという関係ではない。父子の関係は、どちらかと言えば、子ども中心に動いてゆく。というより、子どもが親を導くというような関係が語られる。

この小説のなかの親たちは自分らの子どもたちを「われわれの子供ら」と呼び、自分たち自身を「われわれの子供らの親たち」という。親である自分自身が、子どもを介して他の親と結びついているというのではない。それでは親である自分たち自身がまずあって、その後に子どもと子どもを介した他の親たちとの関係が生じるということになってしまう。そうではなく、「われわれの子供ら」がまずあって、その子供らがかれらの親たちの存在に意義を与え、同じような境遇にあるほかの親たちと結びつけるのだ。

この小説のなかでは、「われわれの子供ら」を介して二人の父親が結びつく。小説の語り手である僕とその友人森・父だ。森・父というのは森の父親という意味で、固有名詞ではない。かれもまた「われわれの子供ら」の親の一人として、自分自身のアイデンティティの前に、子どもとの相対的な関係において認識されるのである。それに対して語り手である僕のほうは、脳に重い障害を持った「われわれの子供ら」の親の一人であるとともに、森・父の友人として、かれの意思を執行する立場で振る舞うようになる。その意思とは、核被爆者としての立場から世界から核を排除する運動に立ちあがり、その自分の運動の意思を世界に向かって示したいというものであるが、その意思の表現者として「僕」が選ばれるのだ。それゆえ僕は、小説が始まってから間もなくして、「幻の書き手」と自称するようになる。

僕もまた「われわれの子供ら」の親たちの一人として、森・父と全く同じ立場にあったのが、途中から「われわれの子供ら」の親という立場から、森・父とその子供・森の身に起こったことを文章の形で表現する「幻の書き手」という立場に移行する。それ故この小説は、「われわれの子供たち」をめぐる話から始まりながらも、小説の進行の早い段階から、森という子どもとその父親との奇妙な関係を、「われわれの子供ら」の別の親が祖述するという形をとるようになる。ということは、この小説を森とその父である森・父との奇妙な関係を描いたものだと言ってもよい。

その森と森・父との関係は至って奇妙なものである。かれらは「転換」と呼ばれる現象を経て、年齢が逆転する。転換前には、森・父は三十八歳であって、森は八歳だった。それが転換を経て、森・父は十八歳、森は二十八歳になる。二人のあいだで二十年をやり取りして差し引きプラマイゼロというわけだ。ともあれこの転換の結果、森・父の方は肉体はもとより精神状態も十八歳に逆戻りする。つまりあまり分別があるとはいえない思春期の少年にまいもどるわけだ。一方森のほうは二十八歳になり、肉体的には髭を生やした青年とはなったが、もともと負っていたハンデが消えてなくなるわけでもなく、成熟した大人とは言えない。だが、青年らしく強い意志は持つようになっていて、その強い意志に基づいて自己主張するようにもなる。その自己主張として小説は二つのことをあげる。一つは、核の仕掛け人であるフィクサーを攻撃するという意思、もう一つは若い女性を相手に青年らしい恋をするという意思である。

森がフィクサーの命を狙うのは、いちおうは森が生まれて間もない頃にフィクサーの息のかかった病院で抹殺されかかったことへの意趣返しということになっているが、それよりもフィクサーが核戦争を仕掛けることで人類に敵対していることへの反撃という意味合いもあるということになっている。一方若い女性との恋という点では、森はそれを純粋な気持ちで楽しんでいるということになっている。人間は、とりわけ若い人間の場合にはとくに、男女の性愛というものを自分の本質にかかわることとして追及するようにできている。それは脳に重い障害を抱えたものにとっても例外ではない。そんなメッセージが、森の恋のエピソードからは伝わって来る。

その森との関係で、森・父は多義的な関係に入らざるを得ない。二人とも、転換したとはいえ、以前の父子関係の記憶はもっていることであるし、その限りではいまでも実の父子であって、しかも森が子供、森・父が父親の関係なのであるが、実際には森・父は十八歳の少年であり、森は二十八歳の青年なのである。その青年の森は、いまだに通常の、ということは常識的な意味での、コミュニケーションがとれない。一応は自分自身の意思に基づいて行動しているように見えるが、その行動にどれほど知的な裏付けがあるのかわからないし、またそれを、父親を含めた他者に伝達する能力にも欠けているように描かれている。

それにしても大江はなぜ、森及び森・父との関係を、このように込み入ったものに設定したのか。その理由の一端を大江は、「『個人的な体験』から『ピンチランナー調書』まで」のなかで触れている。それによると、司修によって描かれた父子のイラストのイメージが大いに絡んでいるということだ。このイメージは、父子の二人を横に並べた簡単なものなのだが、大江を含めて普通の人間には大きい方が父親、小さいほうが息子と映るところが、大江の息子はそうは見なかった。かれの眼には大きい方が自分自身、小さいほうが父親の大江として見えたというのだ。そのことから大江は、自分自身を含めた普通の人間と、彼らの障害を持った子どもとの関係を、いつもとは違った目で見れば、どういうふうに見えてくるか、それを考えてみるのも面白いのではないか、と思うようになったようなのだ。

この小説における父子の年齢の逆転という発想は、以上のような視点の逆転という発想を顕在化させたものという意味を持つらしいのである。その視点の逆転の結果どのような世界解釈が生じたか、それはそれとして重要な課題であるが、とりあえずは視点をずらすことで、世界が多少違って見えるだろうというのが、大江の考え方のようである。

ともあれこの小説の中で大江は、森をして森・父を励ます役を果たさせている。子が父を励ますことで、励まされた父は自分の正義に裏付けが与えられたような気になるのである。






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