根源的な知について

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近頃ユダヤ系の思想家レヴィナスを読んでいる。色々啓発されるところがあって、なかでも「根源的な知」という言葉に、心を動かされた。「根源的」という言葉は、けっこう多くの思想家が使っているもので、とりあえずはヘーゲルとかマルクスの使い方が思い出される。マルクスなどはこの言葉を、物事をその根源においてとらえるという意味で使っているのだが、たしかにドイツ語では、ラジカルが根源的という意味の言葉であって、その言葉には、根っこという意味が込められている。そういえばマルクスもユダヤ系の思想家であった。ユダヤ系の思想家は、根源という言葉が特に好きなのかもしれない。

レヴィナスは、根源的な知を、哲学的、科学的認識ばかりか日常的認識をも含む、ありとあらゆる認識を基礎づける知として定義する。この知を欠くと、日常的な知でさえいい加減になるということだ。では何が、その知の内実をなしているかというと、レヴィナスは、他者と私との関係についての知だとする。この他者には、自分以外の人間という意味のほかに、女性としての他者とか、神も含まれている。レヴィナスは表向きの文章を通じては、神に明示的に言及しない場合が多いのだが、他者に言及する文章の殆どが、神のことを議題にしていると考えられる。ということは、レヴィナスがいう根源的な知とは、神と私との関係についての知ということになりそうだ。

いかにも、信仰の民族といわれるユダヤ人らしい考えだ。神と私との関係についての知が、あらゆる知を基礎づける。その知がなければ、私がこの世界で生きているというそもそもの意味が理解できないし、したがって私は私自身を理解できない。ましてや、私が生きているこの世界についても理解できない。つまり、なに一つとして理解できない。神と私との関係についての根源的な知を欠くものは、根なし草のようなものであって、この世界に定着することはできない。その人間がこの世界に生きているように見えるのは、幻のようにはかないあり方ということになる。

それゆえ、根源的な知は、人間が生きていくうえで、不可欠な知なのである。レヴィナスの言葉は、そのように呼びかけているように聞こえる。その言葉は、神を持たない人々にも届くのだろうか。神を持たないとは、レヴィナスのいうような意味での神を持たないという意味だが、そういう人は大勢いる。かくいう小生もその一人である。小生を含めた大勢の人間は、レヴィナスのいうような神を持たないことによって、根源的な知を持つこともできないのだろうか。

そうではないように思える。レヴィナスのいうような神を持たないでも、根源的な知を持つことは出来るように思える。ではそれは、どのような知か。小生はそれを、人間とはなにか、についての知だと思う。人間とは何か、について知るために、レヴィナスは神と人間との関係を持ち出し、神との関係において、人間の本質を定めたのであったが、なにも神を持ち出さなくとも、人間とは何かについて知ることは出来るように思う。レヴィナスが他者としての神を持ち出し、それとの関係において人間を考えようとしたのは、デカルト以来の伝統になっている、個人的な意識から出発するやり方では、人間の本質は理解できないと考えたからだ。たしかに、個人の意識から出発したのでは、他者は正しく理解されえないし、また世界の意味も正確には理解できないだろう。だからといって、私以外のものを代表させる形で神を持ち出し、その神の威光を受ける形で、人間の本質を語る必要は、人間を理解するための前提としては、ないのではないか。

根源的な知として神と人間との関係についての知を持ちだすのは、私を含めてのこの世界が神によって創造されたとするユダヤ的な世界観を反映している。この世界観は、キリスト教もほとんどそのままに受け継いだから、キリスト教を信じる文化圏、つまりヨーロッパ文化圏では、レヴィナス的な考えは馴染やすい。いまの地球では、ヨーロッパ文化圏が圧倒的な勢力を誇っているから、その文化圏の考え方が、地球上の標準になりがちだ。しかし、世界観には多様なものがある。小生もその一員として属している日本文化は、ヨーロッパ文化とは異なるものだし、その世界観もおのずから異なっている。その日本文化は、インド発祥の仏教とか、中国発祥の道教や儒教といった文化を吸収して、独特な文化を作り出している。その日本文化に馴染んだ立場からすると、レヴィナスの主張は異質なものに聞こえる。我々日本人には、ユダヤ=キリスト教的な、唯一神による世界の創造というような考えは全くないといってよい。そういうところには、レヴィナスのいうような意味での、神と人間との関係についての根源的な知という発想は浮かばない。

我々の日本人の祖先は、この世界は永遠の昔から生成を繰り返してきたと考えた。世界は、誰かある一人の手、すなわち唯一神の手によって作られたのではなく、それ自体として、なんとなく生成流転しているものだと考えたのである。世界はなんとなくそこに存在し、今後もなんとなく存在していくだろう。そういうふうに受け取って来た。その受け取り方は、基本的にはいまでも保たれている。我々日本人は、世界は私が生まれたときに既にそこにあり、私が死んだ後でも、そのまま存在し続けるだろうと思っている。そういう世界観にあっては、世界は自立的に存在するのであって、神という外在的な者の手によって作られたとは考えない。ということは、日本人は、基本的には、神を除外して物事を考えているということになる。苦しいときの神頼みという諺があるが、その諺が言うところの神は、大して実体のあるものではない。我々が神という言葉を使う時は、だいたいがご先祖様というような意味で使っているのである。

我々日本人は、ご先祖様をあがめる傾向が強く、ご先祖様のおかげで自分はあると考える傾向が強いから、その意味では、ご先祖様という神のおかげで存在していると考えないわけではない。その神としてのご先祖様が、私を創造したといえなくもない。だが、その創造の意味合いは、ユダヤ=キリスト教的な神による創造の観念とはおのずから違ったものである。

このように、神と人間との関係に根源的なものを認め、それについての知を根源的な知とするレヴィナスの思想は、我々日本人には馴染み薄いと言わざるを得ない。では、我々日本人は、何をもって根源的な知とするのか。というのも、我々日本人であっても、根源的な知というものは持っているのであるし、また持つべきだと考えるからである。

根源的な知とは、自分自身を含んだ世界というものについての基本的な知をいう。その知があってこそ、さまざまな事象を前にして、その事象の意味を理解し、人間として生きていくことができる。我々日本人は、生きていくうえで必要な知を、智慧という言葉で言い表してきたが、この智慧のもっとも根本となるものが根源的な知である。そうした知を一言で言い表す言葉は、日本文化の伝統の中ではなかったのであるが、あえてレヴィナスの語彙を援用すれば、根源的な智慧といってよいのではないか。

智慧は知識とイコールではない。無論知識を含んでいるが、それに加えて、知識を生かすような、知識に一定の方向付けをするような、知識のコントローラーともいうべき働きを含んでいる。その智慧は、自分自身を含めたこの世界についての、深い理解に支えられている。

小生は先日このブログで、正義を論題として取り上げたことがあった。正義の問題もまた、根源的な知に関わることだと思うが、ここでは正義について触れる余裕がなかった。正義の根源的な知に対する関係については、後日改めて論じたい。





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