三人姉妹:チェーホフを読む

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「三人姉妹」はロシアの中産階級を描いている。中産階級というのは、ロシアに限ったことではないが、身分が不安定である。没落して下層階級に転落する恐れがつねにある。だから、それなりの努力をせねばならない。しかし、努力にも限界があるので、没落の可能性が高まると、パニックのような状態に陥ったり、自分の境遇を直視できないで、判断停止のような状態になったりする。この戯曲に出て来るのは、そういった不安定さに怯えている人々なのである。

それまで主に地主階級の人間を描いていたチェーホフが、中産階級に的を絞って戯曲を書いたのは、ロシアでも地主階級が後退し、中産階級の比重が重くなってきたという歴史的な趨勢を自覚したからだろう。もっともこの戯曲がとりあげる中産階級は軍人なので、そこにロシアらしいところがある。革命以前のロシアで、個人が階級上昇を実現する方途としては、軍人になるのがもっとも手っ取りばやかったという事情を、チェーホフは踏まえているのだと思われる。

戯曲の舞台はロシアのある地方都市ということになっている。そこに一軍人で、将軍にまで上り詰めた軍人が赴任して来て、そこに生活の本拠を置いたのだったが、四人の子どもを残して死んだ。残された子供は、三人の姉妹とその兄弟にあたる人物だ。彼らは父親の残してくれた屋敷に住んでおり、日頃父親とかかわりのあった軍人たちと付き合っている。この戯曲に出て来るのは、三人姉妹とその兄弟にあたる男性とを除けば、みな軍人ばかりなのだ。チェーホフは、三人姉妹に内面化された中産階級的な意識を描くとともに、ロシア的な軍人意識についても皮肉たっぷりに描き出すのである。

題名にあるとおり、戯曲の主役は三人の姉妹である。彼女らは、父親の残してくれた家にすがって生きているが、まともな財産があるわけではなく、自分の未来は自分で切り開いていかねばならない。そこで、それぞれ勤めに出たり、結婚して主婦となっていたりする。長女のオリガは学校の教師だし、二女のマーシャは教員の妻だし、三女のイリーナは役所の吏員なのだ。三人ともそんな自分の境遇に満足していない。できれば、自分たちが生まれたモスクワに戻って、そこで洒落た生活を楽しみたいという願いを持っている。しかしその願いは、戯曲の終わりまでかなえられない。オリガはとうとう校長になって、現在の境遇にいっそう繋ぎ止められてしまうのだし、イリーナは許嫁の男を殺されて現状から脱却する道を失ってしまう。もっとも彼女はその許嫁を愛していたわけではなく、現状から脱却するための手がかり程度にしか思っていなかったのであるが。

マーシャは夫にすがって生きる境遇なので、自分の未来を自分の手で切り開くという気概はもっていない。彼女は教師である夫が不満で、ヴェルシーニンという軍人に心を寄せているのだが、自分のほうからは積極的に不倫に走る勇気がないまま、ヴェルシーニンは新たな駐屯地にむけて移動してしまう。彼女は切なくもひとり取り残されてしまうのだ。

不倫する元気を持ち合わせているのは、彼女らの兄弟であるアンドレイの妻ナターシャである。この女は、ひどい俗物でかつ自己本位なのだが、その自己本位が彼女を、ほかならぬ夫の上司との不倫に走らせる。その不倫は人々の噂にのぼるほど公然としたものだが、本人は一向気にせず、また夫のアンドレイもとがめることがない。アンドレイには、そのような気概はないのだ。その気概のなさから、かれは妻が自分の姉妹に無礼に振る舞うことをとがめられないばかりか、親譲りの財産も手放さなくてはならない羽目に陥るのだ。

こんなわけで、この戯曲には、自分の境遇に不満を持つ三人姉妹と、自分の境遇を自分でコントロールできない惨めな男が出て来て、意味もないおしゃべりをとうとうと広げる場面が延々と続くのだ。おしゃべりの内容は、大勢の軍人たちがかかわっているにかかわらず、きわめて現世的で、卑近といってもよい。その辺は、チェーホフがそれまで培ってきた表現技法が遺憾なく発揮されている。戯曲とはもともと役者のせりふ回しからなるものであり、したがっておしゃべりからなるといってもよいのだが、そのおしゃべりがあまりにも無意味なので、それに感情移入することはむつかしい。むしろ安易な感情移入を拒むところに、この戯曲の生命があると言ってもよい。そういう意味で、この戯曲はアンチ戯曲といえるのではないか。

軍人と言えば、この戯曲には、軍人同士の決闘がサブプロットの一つとして出て来る。チェーホフには決闘を主題とした短編小説があるが、この戯曲では、その短編小説とは異なって、決闘を正面からは描いていない。決闘で許嫁が死ぬことで、イリーナがあらためてモラトリアムの状況に連れ戻されるということを示唆しているにすぎない。

モラトリアムということでは、軍人も含めて、この戯曲に出て来る人物すべてに通じていえることだ。彼らはみな、明確な目的とか確固とした信念にもとづいて生きているわけではない。ただ、なんとなく生きているに過ぎない。そんな生き方は、生きているというに値しない。そんなわけで、登場人物のなかでただひとり実在感を漂わせているチェプトゥイキンは言うのだ。「おお、いっそ存在せんのだったらなあ!」と。






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