定義した隠蔽にあたらず

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いわゆる統計不正問題をめぐって、ひと騒ぎになっている。国会でも取り上げられ、質疑がなされているが、テレビでそのありさまを見ていると、あきれて苦笑する気にもなれない。政府の役人が、野党議員の質問に答えて、珍妙な答弁をしているからだが、その答弁というのが、隠蔽という言葉をめぐって、その常識上の意味とは別に、自分たちが定義した意味もあると、公然と言い放ったものだったのである。

自分たちの定義した隠蔽の概念にはあたらないので、隠蔽したことにはならない。これは自分たちの都合の悪い事実には目をつぶり、都合のよい事実あるいはそうであったほしいと願う事態をあたかも事実であるようにふるまうと言う、安倍政権のこれまでも見られた傾向が、政権の直接メンバー以外にも広くいきわたっていることを、国民の前にさらしたということだろう。

これは非常に困ったことである。何が事実か、国民の誰もが納得できるような共通了解がなくては、何事も議論できない。政治についての議論はおろか、そもそも議論というものが成り立たない。これは、詭弁の横行より始末が悪い。詭弁なら、それが詭弁であることについて、詭弁を言っている当事者も、それを聞かされているものも、共通の了解がある。ところが今回のように、言葉の定義が、それを使う人によって異なるのであるなら、その言葉を使っての議論そのものが成り立たない。

小生は安倍総理の言葉使いに詭弁的な傾向があることを、これまでも指摘してきたが、最近は、詭弁を超えて、コミュニケーションそのものを破壊するような言動が見られるようになってきた。今回のこの言葉の定義の問題では、そうした安倍首相の傾向を、政権以外のものまで、便利に使っているわけである。

権力者が事実を恣意的に解釈することは、トランプが登場して以来世界的な傾向になりつつある。安倍政権にももともとそういう傾向があったが、トランプを横目にしながら、一層露骨に事実を弄ぶようになってきたようだ。

それにしても、自分が定義したものがその言葉の意味だとは、専制君主でも恥ずかしくて言えないのではないか。そんなことが言えるのは神だけだと、誰もが思っているだろうから。





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