サンザシの樹の下で(山楂樹之恋):張芸謀

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張芸謀の2010年の映画「サンザシの樹の下で(山楂樹之恋)」は、若い男女の純愛物語である。いまどき世界のどこかで、こんな純愛がありうるのかと、頭をかしげたくなるような映画である。なぜ、こんな純愛がなりたちうるのか。人の恋愛感情は、理不尽な制約があるときにもっとも盛り上がりやすいらしいが、現代の中国社会には、そうした恋愛への制約がまだ強くあるのらしい。その制約が、若い男女をやみくもな恋愛に走らせる、というふうにこの映画からは伝わってくるのである。

若い男女のうち女性のほうは、まだ中学生ということになっている。中国の学制のことはよく知らないが、日本の中学生よりも年上で、しかも立派に恋をするほどであるから、日本でいえば高校生くらいにあたるのだろう。その高校生が、国の政策に従って農村に実習にやらされる。彼女はその農村で、やはり実習に来ていたらしい若者に見初められて、二人は急速に惹かれあうのである。

二人を結びつけたのがサンザシの樹の下でということになっている。このサンザシの樹は、抗日戦の英雄たちが多数死んでいるところだと紹介される。この映画は別に抗日戦をテーマにしたものではないのだが、言葉の端々に恨みつらみが出て来るように、日本への批判が出て来るのである。

映画の時代背景は紅衛兵の運動が吹き荒れた文化大革命の時代である。その時代にあっては、革命的な友情は大いに推奨されたが、男女の恋愛は不届きなこととして抑圧されたらしい。この若い男女は、そうした時代背景のもとで、人目をしのぶようにして愛情を育むのである。

人目をしのばねばならぬのは、自分たちの恋愛が表沙汰になることで、将来を台無しにする恐れがあるからだ。そのことを最も恐れているのは、少女の母親だ。母親は、娘が折角学校を卒業して、念願の教師になれる道が開けたのに、ふしだらな恋愛が表沙汰になって、娘の将来が台無しになることを恐れるのだ。今の日本では考えられないが、文化大革命の時代の中国では、そういうことがあったのだろう。

母親から、少女とのデートを固く禁じられた青年は、自重して少女の前から姿を消すのだが、そのうちに重い病気(白血病らしい)にかかってしまう。その死の床に、少女は駆け付けて、自分の名を叫びながら青年に呼びかける。かつて青年は、少女の名を聞いたならば、万難を排して駆け付けると約束したからだ。その約束を思い出したように、死の床に横たわる青年の目から涙がこぼれる、というシーンでこの映画は終るのである。

この簡単な筋書きからもわかるとおり、かなり甘い作りの恋愛映画である。同じ恋愛映画でも、「初恋のきた道」が、中国人女性のひたむきさがある程度の共感を呼ぶのに対して、この映画はなにやらしらじらしい印象を見ている者に与える。






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