折口信夫の国学論

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折口信夫は国学院の教授として、国学院の学生を前に講義を行ったなかで、しばしば国学の伝統について語った。その国学の伝統とは、単に学問としての伝統ではなく、道徳としての国学の伝統ということだった。そのことを折口は、次のように語っている。「道徳に到達しないで国学というものはないのです。だから文献学がいくら文献学でも、それは国学ではありません」(平田国学の伝統)

国学と言えば、荷田春満に始まり、賀茂真淵、本居宣長とつながり、平田篤胤によって大成されたと折口は考えているのだが、この流れの最初から、国学は道徳をめざしていたとは言えない。宣長にはその傾向が見られるが、まだ道徳にはいたっていない。国学を道徳と強く結びつけたのは平田篤胤である。だから我々国学を学ぶ者は、平田篤胤をよく学ばねばならぬ。そう折口は考えていた。「平田国学の伝統」と題した小文は、折口の平田篤胤への敬愛を吐露したものだ。

平田篤胤の道徳性は、過激な傾向をかもしだすところがあった。そのことを折口は認めていて、「さういふ憤りやすい、そこまでも清純な心を、どんなにしても守りたいといふ人が出て来たといふことは、篤胤先生以後のことです」と言っている。また次のようにも言っている。「一たびこの学問を行ふと、人間がすっかり変わってしまふ。非常に憤りやすく、人間が神様みたいな気持ちになってしまふ。世の中が無暗に汚らしく見える」

そんなわけだから、幕末に国学の影響が広がるとともに、過激主義者が蔓延したのであろう。平田国学には、世の中を道徳的に正しい方向に変えてゆこうとする強い意志が込められており、その強い意志が人々を過激にしたわけである。

国学の強い影響のもとに、幕末から明治初期にかけて廃仏毀釈運動がまきおこるが、これにも平田国学が強く働きかけている。平田篤胤の仏者嫌い、儒者嫌いは徹底していて、ことあるごとに攻撃しているが、その攻撃性が人々を駆り立てて過激な運動に走らせた。そういう風に見ることができる。

もっとも篤胤は、仏者や儒者からなにも学ばなかったわけではなく、自分の研究に必要ならば、積極的に学んでいたとも折口は言って、篤胤の偏狭さを否定している。篤胤は、仏者や儒者に十分学んだうえで、かれらを批判したというわけである。

篤胤は、仏者や儒者に学ぶだけではなく、無知な庶民からも学ぶ姿勢をもっていた。折口は言う、「先生といふ人は『俗神道大意』といふ本を書いていながら、天狗の陰間みたいな子供を捕まへて、一所懸命聴いて、それを疑っていない」

つまり篤胤という人は、権威にこだわらず、自分の学問にとって必要とあらば、どんな人でも、またどんなことでも、耳を傾ける鷹揚さをもっていたのである。それ故、「一両の金を懐にして、ふらっと江戸に上ってきて、食ふや食はずで、あっちの飯炊きをやったり、こっちの役者の門弟に入門してみたりといふ憐れな生活から、死ぬ前に江戸から追はれて寒い秋田にやられてしまった」にかかわらず、生涯泰然自若としていられたのだということになる。

そんな篤胤の学問が、過激思想となって、人々を駆り立てたということは、皮肉と言えば皮肉になるが、道徳とは本来、人を正しさに向かって駆り立てるものなのである。

こんなわけで、折口は、平田国学の伝統を受け継いで、学問と道徳性とを合わせ備えた国学を後世に向っても引き継いでいかねばならぬと考えるのである。






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