M/Tと森のフシギの物語:大江健三郎を読む

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「M/Tと森のフシギの物語」は、「同時代ゲーム」のアナザー・ヴァージョンといえる。「同時代ゲーム」においては、語り手の僕が双子の妹に向けた手紙のなかで、彼らが生まれ育った村、それは村=国家=小宇宙と呼ばれていたのだったが、その村の神話と歴史について語り掛けるという体裁をとっていたものを、この「M/Tと森のフシギの物語」では、語り手である僕は不特定多数の読者に向けて語るという体裁に変わっている。小説としての「同時代ゲーム」では、語り手が語る村=国家=少宇宙の神話と歴史と並行する形で、僕自身の苦い体験やら、僕とその兄弟たちにまつわる話が展開するのだが、そしてその展開の中では、僕とその双子の妹とがセクシュアリティによって強く結ばれていることが暗示されるのであったが、この「M/Tと森のフシギの物語」において語られるのは、僕が生まれ育った村の神話と伝説だけである。その村はもはや「村=国家=小宇宙」と呼ばれることはないが、そこに伝わっている神話と伝説は、「同時代ゲーム」における「村=国家=小宇宙」のそれとほとんど変わらない。

その神話と歴史を僕は祖母から聞かされることになっている。祖母が僕にその話を始めたきっかけは、小説の最後の部分で言及されるのであるが、僕に村の神話と歴史を語って聞かせたのが祖母だったというのが、この小説が「同時代ゲーム」と決定的に異なるところだ。そこがなかったならば、大江が何故こういう形で「同時代ゲーム」のアナザー・ヴァージョンを書く気になったか、その理由がわからないであろう。「同時代ゲーム」では、神主である父親が息子の僕に村=国家=小宇宙の神話と伝説を語っていたのだし、その僕の母親は重要な役割はほとんど果たしておらず、祖母にいたっては全く影も見えないのであったが、この小説のなかでは、祖母の存在感は圧倒的なのである。そしてこの僕の母親も又、僕の息子との関係で、僕に対する祖母の役割と同じ役割を果たすのである。

それにしても大江はなぜ、「同時代ゲーム」で展開して見せたと同じ話を、再び書く気になったのか。なにしろ、村の神話と歴史にかかわる部分の内容は、全く異ならないと言ってよいのである。「壊す人」に率いられた若者たちが、四国の山の中に独立共同体を作り上げ、周囲の世界から全く隔絶した暮らしを営んだあげくに、幕末についに周囲の世界に発見され、独立を失うプロセス、それでも大日本帝国の権力に全面的に屈することはせず、人口の半分だけを戸籍に登録することで、残りの半分は大日本帝国の支配からのがれるという反抗を続けるも、ついにはそのからくりも見破られ、大日本帝国軍によって粉砕されるという物語は、二つの小説に全く共通した内容だ。その共通した内容の話を、大江はなぜことさらに書く気になったのか。

この小説には大江の障害のある息子が登場する。大江は「同時代ゲーム」では、あえてこの息子を登場させなかったのだが、そしてそれは彼の小説執筆のいきがかりのうえでは珍しいことだったといえるのだが、この小説ではまた息子を登場させている。そしてその息子がかなり重い役割を果たしている。ということは、大江は「同時代ゲーム」に息子を登場させなかったことは、自分としては間違った選択だったのではないかと悔いたのでないか。その後悔の念が大江をして、息子を登場させたヴァージョンで、「同時代ゲーム」を書きなおそうと動機づけたのではないか。どうもそんなふうに思える。

しかし、単に息子を登場させただけで、ほかはそのままというのではあまりにも能がない。そういうわけでこの小説にはいくつかの新しい仕掛けが組み込まれている。その最たるものは、題名にもなっているM/Tという組み合わせと、「森のフシギ」という言葉である。M/TのMは、マトリアークつまり女首長のことで、Tはトリックスターを意味する。この組み合わせが村の神話と歴史を貫いてきたというのが、この小説のひとつの大きな仕掛けになっているのである。すなわちオーバーと壊す人の組み合わせがM/Tの組み合わせの原型となり、その組み合わせと同じものが銘助さんと銘助さんの叔母、童子と銘助母へと続き、それが形を変えて僕と祖母との関係となり、さらには僕の母親と僕の息子の関係に受け継がれる。そんなわけでこの小説は、神話の時代から語り手が生きている同時代まで、相似の組合わせを通じて連綿とつながっている。そのつながりのなかに僕も、僕の障害のある息子も組み込まれている。そんなことを大江は言いたかったのではないか。

一方「森のフシギ」のほうは、森に生きて来た人々のそもそものアイデンティティの源のようなものを表わしている。アイデンティティというのは、森に生きる人たちの森の人としてのアイデンティティだ。かれらが生きて来た、また現に生きている森のなかには、かれらの共同体のそもそもの端緒のようなものがあって、それが輪廻することで、共同体の成員が生まれたり生まれ変わったりしている。壊す人は何回も生まれかわったとされているし、童子は銘助さんの生まれ変わりだとされている。そのように、この共同体の成員は、どこかで深くつながりあっているわけだが、そのつながりの絆のようなものを、「森のフシギ」といっているわけである。そんなわけでこの小説は、「森のフシギ」という、いわば集合的な霊魂のようなものが、人々の運命を左右しているといった、いわば霊感小説的な結構を採用しているわけである。大江は決して霊感的な人間ではないが、小説のひとつの語り方として、そういう要素を取り入れたということだろう。

この小説にはもうひとつ、連綿とした人のつながりを媒介するものとして、頭の傷がある。壊す人についてはそれほど強調されてはいないが、銘助さんには頭に傷ができたことになっているし、銘助さんの生まれ変わりである童子も生まれつき頭に傷があったことになっている。語り手の僕も、生まれつきではないが、河瀬で泳いでいた時に頭に大けがをして傷ができたということになっている。そして僕の息子は、生まれたときに頭に大きなこぶをつけており、それを手術で取り除いたときに、やはり大きな傷跡が残ったということになっている。そんなわけでこの小説に出て来るTの役柄の人々には、頭の傷という共通項がある。その傷で彼らは互いに結びついているわけだが、その結びつきに大江は障害のある息子を位置付けることで、息子にも宇宙論的な位置づけを与えられたと思ったのではないか。この小説はだから、自分の息子に宇宙論的な位置づけを与えてやりたいという意図から書かれたといってもよいのではないか。






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