本質は直感されるか

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フッサールは意識の直接的所与としての直感から出発する点でカントの正統な後継者である。だが、カントとは異なった面もある。それには二つあって、一つは直感として与えられる現象を、それを引き起こした物自体と区別しないで、現象だけを人間の認識のすべてをカバーするものだとしたこと。もう一つは、直観には感性的なものばかりでなく、知的なものもあるとしたことだ。フッサールはその知的な直観を、本質直観とか形相的直観とか呼んでいる。カントにとって直観とは、知的認識にとっての材料を提供する感性的な内容をさすのであって、それ自体のなかには知的な要素は含まない。感性的な所与と知的な認識とはあくまでも区別されねばならない。本質とか形相とかいうものは、知的な働きの結果生じてくるのであって、直観として与えられることはない。ところがフッサールは、本質も又直観の内容となりうるといって、知的な直観を認めたのである。

本質が直観されるとはどういうことか。あるいはそのことでフッサールは何をイメージしていたのか。というのも、こうした考え方は、決してフッサールだけのものではないにしても、広く受容されているものでもない。もしこの考え方に合理性があったなら、もう少し広く受容されてもよいように思う。それがそうならないのは、この考え方に無理があるからではないか。どこに無理があるのか。それをすこし考えてみたい。

まず直観という言葉だが、この言葉で伝統的な哲学がイメージしてきたのは、我々の意識に直接与えられる感性的な所与のことであった。我々は感覚器官を通じてそうした所与と出会うというふうにイメージされて来た。その所与には、感覚器官の相違に応じて、視覚とか聴覚とか触覚とか臭覚とかいった相違はあるが、知的な認識にとって決定的な意義を持つのは視覚的なイメージである。観想的なイメージとは視覚的なイメージのことをさしており、その観想的なイメージが意識の直接的所与の最も重要な要素となっているわけである。

主として視覚的イメージからなる意識の直接的所与は、あくまでも感性的な内容からなっており、極めて断片的である。たとえば我々がある家を見る時、我々が見るのは家の一部であり、家の全体像が見えているわけではない。その場合に我々が家の本質と言っているのは、全体像をふくむ家の家としてのあり方なのであって、そのあり方の中身としては、人間がそこに住むということとか、あるいは人間に安らぎの場を与えるとかいったことが含まれている。ところがそうしたことは、断片的な視覚的イメージからは得られない。それが得られるためには一定の時間が必要であるし、また意識の直接的所与を超えたなにものかが必要であるように思える。

時間が必要だということは、我々の意識が瞬間的に捉えられるのは、対象の一部だけであって、その全体像に近づくためにはある程度の時間が必要だということだ。家の例について言えば、ある時点では家の前面を見、他の時点では家の背後を見、ある時点では家の内部を見るといった具合で、家の全体像に近づくためには、各瞬間ごとの積み上げが必要になり、それには一定の時間を要するといった具合だ。人間の認識作用というのは、それ自体としては非常に一面的で、かつ直接的なものに限られるので、対象の全体像に近づくためには一定の時間が必要なのである。

対象の全体像を把握するために必要なのは時間ばかりではない。我々が家の一部を見る時、我々はそれを家として認識するわけだが、この「このものをそのものとして」認識する働きは、直観の枠を超えているように思える。カントは、「このものをそのものとして」認識する働きは、直観として与えられた意識の直接的所与に、知性が一定の枠組みを当てはめることだと考えた。カントはその枠組みを、人間の認識作用にアプリオリに備わったものだとし、それをカテゴリーと呼んだわけだが、カテゴリーは対象に外部から当てはめるものであって、直観のなかで対象と同時に与えられるものではないと考えた。

ところがフッサールは、カントのいうカテゴリーに相当するもの、それをかれはとりあえず本質というわけだが、その本質は直感のうちに与えられるというのである。どういう意味でそういうのか。

フッサールの現象学は志向性という概念の上に成り立っている。志向性とは意識の性質をあらわした言葉で、単純化して言えば、意識とはつねになにものかについての意識である、という主張である。そのなにものかは意識の対象をさすわけであるが、この意識の対象は単に感性的な内容だけではなく、知的な内容、つまり対象の本質についての知識も含むとフッサールは考えるわけである。フッサールにとって意識の働きとは、意識の対象とは別個のものではなく、対象と一体のものであった。フッサールは意識の働きそのものをノエシスと言い、ノエシスが向かう対象をノエマといったわけだが、わざわざこういう言い方をするのは、ノエシスとノエマとが本来別々のものではなく、一体としての意識のそれぞれ別の様相をさしているのであって、本来は区別できないものだとの主張を盛り込みたいからなのである。

つまりフッサールにとっては、意識とはつねになにものかについての意識なのであり、なにものかを欠いた意識は成り立たないということから、意識と対象との不可分性あるいは同一性のようなものを考えていたようなのである。対象は意識にとって外在的なものではなく、意識に内在的なものであるというのがフッサールの基本的な立場であるから、対象に意識がいわば外から働きかけるというようなカント的な構図にはならない。対象が意識にとって現われて来るのは、あくまでも意識の内部のことであって、それは対象が意識に現われるあらゆるシーンを通じて変わらない。しかもそのあらわれ方は、対象そのものが自分の内部から自分をあらわすといった仕方においてであって、意識が対象に外部から働きかけて、カントのいうような統合をすることで初めて対象の対象たる所以である本質があらわになるわけではない。対象の本質は対象自らが自分自身の内部からあらわすといった構図になるのである。

対象が自らの本質を意識に対してあらわにするということは、意識の側からすれば、意識が対象に働きかけて意識のもっている枠組みに当てはめる、あるいはその枠組みに統合するということにはならないで、対象そのものが直接自らの本質を意識に対して示すということになる。それを意識の側からすれば、意識が対象の本質を直観するということになる。何故なら、意識の側の働きかけを予想しないものについては、その表れを意識が見ることは、直観という言葉以外では表現できないからだ。すくなくともフッサールはそう考えたようである。

しかし、こういう考え方はやはりどこかで無理があるように思われる。我々の認識作用の基本は、あるものをそのものとして認識することにあるが、その作用を認識の側ではなく、対象の側が主導的に示すという考え方は、かなり無理があると思う。あるものをそのものとして認識する場合のそのものとは、やはりカントのいうようなカテゴリーとして捉えるのが自然なのであって、フッサールがいうように、対象そのものが自己の本質を意識に対して直接的に示すというのは、無理な考え方のように思われる。

なお、フッサールの本質直観に似た思想を日本の西田幾多郎も打ち出している。西田の場合には知的直観という言葉を使い、それが純粋経験の内部で与えられるというような言い方をしているが、その詳細については別の機会に触れたいと思う。






コメント(1)

宮国と申します。経験論について研究しております。
(ウェブサイトは http://miya.aki.gs/mblog/ です)

以前、西田関連でコメントしたことがあります。

私はフッサールの本質という考え方には(壺齋散人様と同じく)同意しかねますし、一方で「カテゴリー」という考え方にも違和感を覚えます。

(私が説明するまでもないかもしれませんが)ヒュームは抽象・一般観念について、常に名辞(言葉)と個別的知覚経験との関係としてしか現れないと述べています。

そして実のところ、それは言葉の意味全般(抽象概念、固有名詞などにかかわらず)に言えることではないでしょうか。実際、私たちの具体的経験として、言葉の意味とは、常にその言葉に対応する個別的・具体的経験としてしか現れないのではないでしょうか。

カテゴリーではなく、常に名辞(言葉)と個別的・具体的経験との関係ではないか。

仮に「これが〇〇の本質だ」と思うことがあったとしても、それは「〇〇の本質」という名辞(言葉)とそれに対応する、やはり何らかの具体的・個別的経験との関係として現れていると思います。

本質というものは直感として現れる、というよりも、経験から因果的に・事後的に導かれたものであると思います。

「意識のもっている枠組み」というものはどこにあるのでしょうか? これも事後的な因果推論にすぎないのではないかと思います。

そのものを見て「机」あるいは「リンゴ」と思ったのであれば、端的に「机」「リンゴ」と思ったのであり、そこで志向性やらカテゴリーやら(「意識の直接的所与を超えたなにものか」)が作用しているというのは、具体的経験として現れていない、事後的因果推論でしかないと思います。

・・・先日、言葉の意味に関するレポートをまとめました。

言葉の意味は具体的・個別的経験(印象・観念)としてしか現れない
http://miya.aki.gs/miya/miya_report22.pdf

西田の「知的直観」については以下のようなレポートをまとめています。

西田がモツァルトの経験について論じるとはいかなることか
~西田幾多郎著『善の研究』第一編第四章「知的直観」分析
http://miya.aki.gs/miya/miya_report16.pdf

ご興味があればですが・・・

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