俗流歴史本と対峙する

| コメント(0)
中央公論2019年6月号に、歴史学者呉座勇一が「俗流歴史本と対峙する」という文章を寄せている。いま世間で評判になっている歴史書三点をとりあげて、その学問的いい加減さを指摘しながら、こうしたいい加減さがまかり通っているのは、歴史学者たちが無関心なせいともいえるので、歴史学者はもう少し目を見張って、こうしたいい加減な言説に必要な批判を与える必要があると訴えているものだ。

まず、今人気の小説家百田尚樹の本「日本国紀」について。この本にはあちらこちらに誤りがあり、なかには相互に矛盾する記事を平気で載せているという。たとえば、日本の皇室は万系一世で、すべての天皇は神武天皇の子孫だと主張する一方、日本の皇室は応神天皇の時と継体天皇の時と、二度王朝の交替があったと書くなど、一冊の本の中で内容が矛盾している。これは百田が、日本史に関する基本的な知識と論理的思考を欠いているために、支離滅裂になるのだといって、百田には歴史書を書くだけの知的体力が欠けていると断罪し、もし反論があるのなら寄せてほしいと挑発している。

その百田が参考にしているらしい小説家の井沢元彦について、この男が現在「週刊ポスト」に連載中の「逆説の日本史」をとりあげて、その歴史解釈の恣意性を指摘し、井沢は小説家らしく小説を書いているのがふさわしいのであって、なにももったいぶって歴史書を書く必要はないばかりか、日本の歴史研究にとって有害だといわんばかりである。

その井沢が褒めているという歴史家の本郷和人について、本郷は歴史研究にとって基本的なことである資料を読むということを、自分は全くできないと認めながら、必要な資料による裏付けを全く示さないで、勝手な歴史解釈をしている。これは本郷が歴史学者であるだけに始末が悪い。本郷自身は、自分の説に反論するものがいないことを理由に、自分の説の有効性を主張しているが、これは勝手な思い込みであり、そういう思い込みを許さないためにも、歴史学者たちはもっと歴史研究の舞台に目を光らせるべきだ、と改めて主張している。

これは、歴史研究の分野で俗流がはばを利かせている現状を憂えているということだろうが、ことは歴史研究の場だけに止まらないようだ。たとえば憲法学分野でも、時の政権の強引な憲法解釈を学問的に後押しするような学者が闊歩するようになった。憲法問題は政治に直結することがらなので、そこに政治的な意図が入りこむのはある程度やむをえないものがあるが、それにしても現在の憲法学会は、従来なら歯牙にもかけられなかったような珍説が、政治と学問の権威をまとってまかり通っている現実がある。ここまでくると、学問は自殺するようなものだ。そうならないためにも、学会のメンバーは自分の学問に責任を持って、いい加減なことを言う学者を厳しく批判する必要があるだろう。





コメントする

アーカイブ