共時性と隔時性:レヴィナスの後期思想

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レヴィナスは「存在の彼方へ」の中で、彼の後期思想を彩るいくつかの概念セットを持ち出している。「共時性と隔時性」という概念セットは、そのもっとも中核的なものである。共時性はともかく、隔時性とは聞きなれない言葉だ。共時性にしても、哲学のキー概念として使われることはなかった。隔時性はレヴィナスの造語であり、その新しい言葉との対比において、共時性という言葉も、蘇るようにして新たな意味を付与されたのである。

隔時性とはフランス語でディアクロニー(diachronie)という。サンクロニー(synchronie)に対立する言葉である。この言葉をレヴィナスはギリシャ語からとった。隔てを意味するディアと、時を意味するクロノスを組み合わせたわけだ。それに対してサンクロニーは、共にを意味するシンと時を意味するクロノスの組み合わせで、ディアクロニーとは対立する関係にある。これら一対の対立概念のセットを通じて、レヴィナスは何を主張したのか。単純化して言うと、共時性が我々人間の有限な認識作用を基礎づけているのに対して、隔時性は、他者との間で無限な関係を確立するための条件だということになる。

レヴィナスによれば、人間の認識作用は時間のうちで展開される。人間の認識作用が目ざすものは真理であるが、その真理とは存在が隠れなくあらわになることである。そのためには一定の時間が必要だ。人間は一瞬にして存在の真理を認識できるようにはできていないのだ。人間の認識は、一定の時間のなかで、対象のさまざまな現われ方を一つの実体のうちに統合するという作用を通じて対象の存在についての十全な認識に到達する。さまざまな差異を統合して、それを一つの自同性にまとめること、これが人間の認識作用の本質的なあり方なのだ。

このことをレヴィナスは次のように言っている。「哲学とは存在の発見であり、存在の存在することが真理であり哲学である。存在の存在することは時間の時間化~、自同的なものの分裂であると共に自同的なものの再把持ないし想起、統覚の統一性である」(「存在の彼方へ」合田正人訳、以下同じ)

自同的なものの分裂という言い方をしているが、それはある一つのものが、人間の目には、時間の流れのなかで様々に異なった様相を呈するという意味である。それらの様々な様相を、一つの自同的な対象へと統覚すること、それが人間の認識作用の本質的なあり方だと言っているわけである。そのことをレヴィナスは、次のような言葉に言い換えて表現している。「自同性のうちに差異を生ぜしめること、変質しつつある瞬間を保持すること、それはこの瞬間を『未来把持』ないし「過去把持」することである!」

過去把持とは、現在のうちに、それまでの過去の記憶を再現前化することである。人間にはこの過去把持、つまり記憶の能力があるおかげで、時間のなかで進行するさまざまな知覚作用を統合することができるわけである。その統合を通じて、さまざまな現象のあらわれを、一つの自同性のもとに統覚できるのである。こうしてみると、レヴィナスの言うところの人間の認識作用は、「現在のうちでの存在の集約~過去把持、記憶、歴史による、想起による存在の共時化~再現前化」ということになる。つまり共時化とは、現在のうちに過去把持や未来把持を再現前化させて、対象の存在を自同的なものとして認識する働きを基礎づけるものだということができる。

このことをレヴィナスは、次のような言葉で、再確認している。「過去把持、記憶、歴史的再構築によって~、想起によって、意識は、一種の能作としての表象、つまり再現前化ないし再現在化と化す。改めて現在たらしめること、四散したものを現在としての現前のうちに集めること、このような活動が意識である。この意味において、つねに始まりにあること、自由であること、それが意識なのだ」。つまり意識とは、現在のうちに過去や未来を再現前化させる共時化の働きだというわけである

以上が共時性についてのレヴィナスの見解であるが、ではそれに対立するものとしての隔時性とはどういうものか。隔時性は共時性と対立関係にあるわけだから、共時性の枠に収まらない事態を、とりあえずは指すといえる。共時性の枠に収まらないとは、人間の通常の認識作用とは馴染まないということだ。通常の人間の認識作用は、人間のあらゆる知的活動を基礎づけているわけだから、その枠に収まらないと言うことは、隔時性が人間の知的活動とは無縁なものだということを意味する。では、隔時性とはいったい何を基礎づけているのか。レヴィナスは、それは他者だという。他者は人間の知的な作用によっては正当に受け入れられない。それは人間の知的な活動に先立った形で私の前に、顔という形で、あらわれる。私はその他者の顔を、知的に認知するだけでは、他者を正当に理解したことにはならない。他者は知的に理解するだけのものではなく、もっと別の形で、それをレヴィナスは「存在するとは別の形で」と言っているのであるが、特別な形で他者を受け入れねばならない、とレヴィナスは言うのである。

共時化としての認識の働きを通じては、他者を正当に理解できないということを、レヴィナスは次のように表現している。「時間の時間化においては、すべてが実体として結晶し硬化する。そこには失われた時も失われるべき時もない。すべてが回収可能であり、実体の存在はこのような時間のうちを通り過ぎてゆく。しかるに、このような時間化のうちで、回避することなき時間という経過が、どんな共時化にも逆らう隔時性が、超越論的隔時性が告知されなければならない」

共時化に逆らう隔時性をレヴィナスは超越論的隔時性と言っているが、超越論的の意味についてここでは、意識の作用を超越したというような意味合いで使っているようである。意識の働きは有限な時間のうちで展開され、それが現在という時間のなかで共時的に統合されるわけだが、超越論的隔時性は、そうした有限なものからはみ出たものを基礎づける。そのことをレヴィナスは次のように言う。「現在~、それは始まりと終わりを有した存在することであり、この始まりと終わりは、主題化可能な連携をなすものとして集約されている。現在、それは自由と相関関係を有した有限なものである。これに対して隔時性は、全体化不可能なものとして、連携を拒む。まさにそれゆえ、隔時性は<無限>なのである」

つまり隔時性は無限の相関観念なのである。無限に向かって超越することで、人は初めて他者に到る道が開ける。無限に至るためには、「過去の諸相を共時化する想起に逆らう隔時性」が必要なのだ。また、「超越には、超越論的統覚の統一性を破る隔時性が必要なのだ」。

だがこれらの規定性は、隔時性を共時性との関係で説明するものであって、隔時性を共時性の否定性として、いわば消極的に定義したものだ。隔時性が有している積極的な内容には触れられていない。レヴィナスには、概念の内実をそれと表向き対立関係にあると思われる概念と関連付けながら、否定的な形で定義する傾向があり、そのことがレヴィナスの文章のわかりにくさに拍車をかけてもいるのだが、隔時性の概念についても、そうした傾向が見られるわけだ。我々は、この概念のおかげで、共時性の意義がより深くわかったような気持ちにさせられるし、また無限が共時性を前提にしては理解できないということもわかるのであるが、では隔時性が具体的にどのような内実を有しているのかについては、漠然としたままに取り残されたように、レヴィナスの文章からは受け取れるのである。






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