無限について

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無限は、無と並んで、哲学上の由緒ある概念として長らく思索の対象となって来た。無限をどうとらえるかは、有限な存在としての人間にとっては、ある意味生き方の根拠にかかわることである。有限な存在として、有限な命を生き、有限な生涯を終えるというだけならば、人間が生きていることにいかほどの意義があるだろうか。それゆえ人間は、どこかで無限につながっていたいと思うように出来ているようである。無限とかかわりがあると思えれば、自分の命にもなにがしかの永続する意味がある、そう思えるようである。

無限という言葉には、それを漢字で表すと無という文字が含まれている。だから、漢字を使う民族である日本人は、無限と無にはなにか共通するものが含まれていると考えるだろう。日本語の無には、何かがないという意味と、何もないという意味とがある。何かがないというのは、存在の部分否定であり、何もないというのは存在の全面否定である。そういうものとしての存在の否定を、虚無という言葉でも表す。虚無とは、およそなにものも存在しないこと、究極の無を意味している。

無限という言葉に含まれている無は、何をあらわしているのだろうか。無限という言葉の普通の意味は、限りが無いということである。だから、ある種の否定表現であることは間違いない。否定表現ではあるが、言葉の意味する概念の内包は、積極的な意味を担っているようである。無限とは限りがないとは、有限の否定である。存在の有限性を否定するわけであるから、その結果得られるものは、存在の充溢そのものである。無限に存在するものを、我々普通の人間はそう簡単には表象できない。にもかかわらず、その観念をもつことができる。これは、神の観念に似ている。神についても、我々人間はそれを表象できないが、しかし観念をもつことは出来る。無限もまた同じような意味合いを持っているようである。

無限が神に似ているからといって、無限の観念には実質的な内容がないとはいえない。無限の観念には、それを成り立たせている根拠のようなものがある。それを示した人としては、ヘーゲルとウィトゲンシュタインがとりあえずあげられる。ヘーゲルは無限を、限度のない繰り返しというふうにとらえた。ヘーゲルは、普遍的な概念と個別的な事象との関係を次のように考えた。個別的な事象は普遍的な概念の実現したものとしてのあらわれである。これを人間の立場から言えば、人間は個別的な事象を普遍的ななにものかとして捉えるということになる。この場合、個別的な事象がどのような形をとるにせよ、それが普遍的な概念に合致する限り、どんな場合においても同じ普遍的な概念として認識される。つまり普遍的な概念は、くりかえし限りなくそのものとして認識されるわけで、この限りないくりかえしをヘーゲルは無限という言葉であらわしたのである。

これは関数関係に置き換えることができる。関数関係というのは、ある一定の法則を関数としてあらわし、その関数にあてはまる関係はどんな場合にも成立するというものだが、これも無限のくりかえしという考えのうえに成り立っている。この無限の繰り返しということを、もうすこしスマートに、つまり簡略に表現したのがウィトゲンシュタインだ。ウィトゲンシュタインは、我々人間のもつ無限の観念は、整数の性質に由来すると考えた。我々はものの数をいくらでも加えていくことができるが、この加えていくことの限りなさが無限の観念をもたらしたというのである。果てがないこと、あるいは限りが無いこと、それが無限だというわけである。

数を数えるという働きは、無論人間のすることである。その人間が、対象を前にしてその数を数えている間は、有限の数の範囲にとどまるだろう。人間は無限数を数えることは出来ないからだ。にもかかわらず、人間は無限の数という概念を持つことができる。それは数を数えるという行為の可能性を物語っているのだと思う。実際には無限の数というものはありえないのだが、人間が数える行為には限りが無いから、可能性としては、あるいは理念的なものとしては、無限の数というものが存在する。これは同じ数字でもゼロとは違うところだ。ゼロは数の不在であって、そのものとしては存在しないのだが、しかし観念としてはありうる。操作的な概念という意味合いにおいてだ。この操作的な概念を活用することで、微積分の考え方が成り立つ。微積分は無限の概念がないと成り立たない。

これは無限の繰り返しから無限の観念に迫ろうとするものだが、数を数えるというのは、時間のなかで行われるものであるから、無限の時間的なあり方といえるのではないか。それに対して空間的な意味での無限というのもある。これは、とりあえず宇宙全体をイメージすればわかりやすい。宇宙には果てがないと言われる。しかも絶えず膨張もしているそうだ。これは、宇宙には空間的な限度がないということだ。宇宙の空間的な性質については色々議論があるようだが、ここではとりあえず、空間にも無限の概念があてはまるということを確認しておきたい。

こうしてみると無限とは、時空と深いかかわりがありそうである。時空についての人間の認識と深くかかわっていると言い換えてもよい。人間は時間的にも空間的にも有限の存在である。時間的に有限とは、人間には始まりとしての誕生と、終わりとしての死があるということだ。空間的に有限とは、単純化して言えば、人間の視界が限られているということだ。にもかかわらず人間は、自分の生まれる前のことや、自分が死んだ後のことも考えることができる。また、宇宙の果てのことまで考えることができる。それは人間が、可能性としては無限を把握することができることに根差している。

可能性としてにせよ、人間が時空について無限を考えることができるのは、やはり人間の認識にそれを可能にするメカニズムが内在しているからではないか。ここでもう一度ヘーゲルの無限概念に立ち戻りたい。ヘーゲルの無限は、普遍的な概念はつねに変わらず自己をあらわすということを意味しているわけだが、この「つねに変わらず自己をあらわにする」というところが肝心なところだ。経験論の弱点は、因果関係の必然性への疑問を払しょくできないことだった。ヒュームがいうとおり、経験はこれまでのことに根拠を与えるだけで、未来のことまで根拠づけることは出来ない。ところがヘーゲルの無限は、一定の条件が整えば、普遍的な概念はつねに当てはまるということを実証した。それを関数関係の概念に置き換えれば、関数関係は、一定の条件のもとでは、例外なくつねに当てはまるということである。つまりそう言うことで、普遍的な事柄を因果関係として基礎づけたわけだ。カントは普遍的な概念の根拠を人間の意識に備わったアプリオリに求めたのだったが、ヘーゲルはそんな面倒な回路は省いて、関数関係を一種の必然的な関係に転化したのだった。必然的とは、分析的ということである。分析的とは、主語のなかにあらかじめ述語の意味が含まれていることをいうが、関数も又、そのなかにそれがもたらす結果を含んでいるのである。

関数は、人間の世界認識を数学的な形であらわしたものだ。そのなかに無限の観念が含まれている。とすれば人間は、本来有限な存在であるにかかわらず、無限を観念できるように作られているということだ。逆に言えば、無限の観念がないと、意味のある世界認識ができないということだろう。





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