生き方の定義:大江健三郎を読む

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ある小説のなかで大江健三郎は、重い障害がある自分の息子が、自分が死んだ後でも生きていくのに迷わぬよう、生き方の定義のようなものを残してやりたいと書いていたが、「生き方の定義」と題したこの書物がそれなのだろうと思って、手に取って読んだ次第だった。ところがこの書物は、冒頭の章で息子の生き方に多少の言及をしたのみで、その後の章では、必ずしも息子の生き方にストレートに役立つような内容には触れられていない。むしろ大江自身の生き方について、自分自身に言い聞かせているふうなのである。もっとも、親としての大江の自分自身の生き方へのこだわりを見せられれば、息子としてもいくばくかの参考になるのかもしれないが。

書物は冒頭の章を含めて十二の章からなっていて、それぞれ独立したテーマを扱っている。その中で小生の気になったというか、考えさせられた部分について触れてみたい。まずは、「資産としての悲しみ」と題した第五章。資産としての悲しみとは、普通はマイナスに働く悲しみの感情をプラスの方向で受け止めることは出来ないか、という問題意識から出て来た言葉で、悲しみを自分の生き方に積極的に活用しようというような内容だ。

その問題意識を大江は次のように表現している。「それは自分のうちに解きほぐされることなく残っている、大きな悲しみがあり、それはもう中年も終わりという自分の年齢になれば、死の時までつきあわねばならぬはずの、堅固な悲しみだということでした。しかもそれにつづけて、それならばこれらの悲しみは、すでに自分の生の資産にほかならぬ、という思いがきました」

資産なのであるから、その悲しみは大江の生を豊かにしてくれるのだろう。しかし、そのような悲しみを持つということは誰にでもできることではない。実際小生にしてからが、大江のいうような「資産としての悲しみ」をもっているかというと、どうもそうは言えないようなのである。小生も一人前の人間であるから、無論悲しみの感情を経験したことはある。しかしいまでも忘れることが出来ないで、小生の日常生活を常に彩り、したがって小生にとって、大江が資産としての悲しみと表現したような、心のなかに根の生えたような悲しみは、どうも見当たらない。それをどう受け止めるべきなのか。幸せなことだというべきか、それとも、悲しむべきというべきなのか。

大江が悲しみを資産といったことには、悲しみの感情が自分の生を豊かにしてくれているという反省が込められているのだろう。悲しみの感情は、人間の感情のなかでも最も情緒に富んだものだから、大江のような人間を描くことを使命としている作家にとっては、欠かせないものだろう。すくなくとも、悲しみの感情を自分自身のものとして常に再現前化させることができなければ、優れた小説は書けまい。小説家ならずとも、悲しみの感情を自分自身のものとして再現前化できないようでは、他人の悲しみへの理解も成り立たないだろう。そういう意味では、悲しみの感情は、人として生きていくうえで、不可欠なものだと言える。もっともそれを資産として所有していることは、また別の問題と思うのだが。人は悲しみの感情を資産として所有していなくとも、必要な場合にそれを再現前化することは出来るように思われるのだ。

大江は資産という言葉が好きらしく、知の資産という言葉も使っている。「この項つづく」と題した最終章のなかで、大江は死んでしまった人々に触れながら、それら死んでいった人々があの世に一緒に持って行ってしまったものを、知の資産として取り戻すことは出来ないかといっている。「死んでいった人々の、向こう側へ持って行ったかけがいのないものを、幾分なりとこちら側に取り返す、そしてそれらを自分らに与えられた知の資産、また情動の資産として再認識する、かつはそれを伝達するという方向づけで、僕もまた力をつくしたいと考えていることは、いっておきたいと思います」

知の資産ということならわかりやすい。知というものは、言葉として表現されるものだ。言葉はそもそも人々の間の伝達に用いられるわけだから、過去の人びとの知を現在の我々が遺産として活用することができるし、また我々の活用した知を、後世に遺産として伝えることもできる。しかし、情動はそうはいかないだろう。情動とは、悲しみと同じく個人的なものだ。本来伝達に馴染むものではない。だから資産としての情動という言い方は、資産としての悲しみという言い方以上に無理があるように思われる。悲しみは心のなかに停滞することがあり、その停滞が資産のように受け取られることはあるかもしれない。しかし情動はそうではないようだ。情動は、悲しみのようには、心のなかに堆積することはない。情動は本来一時的なものなのだ。

悲しみの感情のなかは、いつまでも忘れることができないで、つねに心のどこかに停滞しているようなものもある。そういう感情を資産ということには一定の理由があるように思える。知については、それは本来伝達を前提としたものだから、これこそ資産という言葉が相応しい。それに対して情動は、瞬間的な心の動きだから、それがいつまでも忘れられずに心のどこかに停滞しているということは考えにくい。したがって資産という言葉は馴染まない。これがこの書物を読んでとりあえず小生の心に浮かんだことであった。






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