敗戦、ドイツの場合3:日本とドイツ

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終戦後ドイツは、米英仏ソの四か国に分割占領された。シュレスヴィヒ・ホルシュタイン、ニーダーザクセン、ノルトライン・ヴェストファーレンがイギリスによって、ヘッセン、バイエルン、バーデン・ヴュルテンブルグの北部がアメリカによって、ラインラント・プファルツ、ザールラント、バーデン・ヴュルテンブルグの南半分がフランスによって、旧東ドイツ諸県がソ連によってそれぞれ占領され、ベルリンは、米英仏ソの四か国によって分割占領された。こうして戦後のドイツは、国土をバラバラに分割占領されたうえに、やがて西側と東側との冷戦を反映して、国家としての統一を果たせず、東西に分裂してしまうのである。

ドイツは、国家が分裂してしまっただけではなかった。国土のかなりの部分を失ってしまったのである。それにはスターリンの思惑が大いに働いていた。スターリンは、1939年のヒトラーによるポーランド侵略に呼応する形でポーランドに侵攻し、ポーランドの東半分を占領、ナチス・ドイツとの間でポーランドを分割領有した。ここにおいてポーランドは、一次的ながらも世界地図から消えてしまったのである。これは明らかに侵略であるから、本来は、戦後に現状復帰されるべきであったが、スターリンは、ポーランドの占領地の領有を永続化しようと企んだ。

ソ連一国だけでは、さすがにそんな乱暴なことはできない。そこでスターリンはチャーチルを篭絡しにかかった。ドイツとの戦争に邁進するかわりに、ポーランドから奪った東半分をソ連が永久に領有する。それによって生じるポーランドの領土喪失を保障するために、ドイツから東プロイセンをとりあげて、それをポーランドの領土として与えるという提案を行った。その提案にチャーチルはOKを出した。この合意がなされたのは、1945年2月のヤルタ会談の際だったようだが、チャーチルは早速、当時ロンドンに拠点をおいていたポーランド亡命政府に説明した。ポーランドの既存の領土に比較して、ドイツの東プロイセン地区はずっと高い工業力を持っていた。そこを領有できれば、ポーランドの戦後復興は、早いテンポで進むだろう。もっとも、ポーランド亡命政権は、欲を出して、東プロイセンのほか、ナチスに侵略された領土に合わせて、ソ連に侵略された領土も取り戻したいと願った。しかしチャーチルは、亡命政権のそうした虫のよい希望を打ち砕いた。東プロイセンを貰う代わりにポーランド東部をあきらめるか、それともポーランド東部を返してもらい、原状復帰をするか、どちらかを選べと迫ったのである。その場合、スターリンがポーランドの東部をすんなり返してくれるとは限らない。こういうようなやり取りを経て、ソ連によるポーランド東部の侵略にお墨付きを与える一方、ドイツから東プロイセンをとりあげて、ポーランドに与えることとなったのである。

スターリンは、旧ドイツ領のうち、ケーニッヒスベルク周辺の土地については、自らソ連領として統合した。こうしてスターリンは、ポーランドを侵略して得た広大な土地のほか、あのカントが生涯を過ごしたケーニヒスベルグの領有にも成功した。第二次世界大戦を収束し、戦後秩序を再編するに際しては、領土不拡大の原則、つまり不当に侵略して得た領土については認めない、従来そこを治めていた国家に返すということが、原則として建てられたわけだが、その原則が踏みにじられたわけである。ソ連とその後継者であるロシア政府は、日本との間でも、北方領土の不法占領という問題を抱えているが、かれらはなんとかしてそれを合理化しようとし、その理由として、戦争の結果得た正当な報酬だと言っている。これは、それ自体がおかしな理屈だが、もし北方領土の返還に応じたならば、それよりもっと巨大な問題である旧ポーランドの返還問題及び東プロイセンの略奪問題にも発展しかねないという深刻な懸念があることは否めない。それゆえ、ロシアが日本の北方領土の返還に平和的に応じる可能性は、全くないと言ってよい。

ところで、ドイツの分割占領を強く主張したのはスターリンである。1945年2月のヤルタ会談の席上、ドイツ降伏時の占領状態の如何にかかわらず、あらかじめ米英仏ソによる分割占領の見取り図を作成した。それにもとづいて占領が行われたわけだが、スターリンには、それについての思惑があった。かれは近い未来の東西対立を見越して、その対立において、ソ連に有利に働くように、細工を図った。ドイツの分割統治とか、ドイツ領土のポーランドへの割譲、そのポーランド領のソ連への割譲などは、みなその思惑にそったものだったのである。

スターリンとしては、西側との対立において、西側の勢力と直接接することを避けたい。そのためには、ソ連領と西側勢力圏との間に緩衝地帯を設けたい。こうした意図に基づいて、東欧圏をソ連の勢力圏に取り入れることが行われる一方、ドイツを不自然な仕方で分割するといったことが行われた。ドイツは、領土のかなりな部分を奪われたほか、ソ連によって占領された地域を、東ドイツという形で、ソ連の衛星国家として取り込まれることとなったのである。

そんなわけで、敗戦後のヨーロッパの世界秩序再編には、スターリンの意向が強く働いていたとみなすことができる。そこまでソ連に、西側諸国が遠慮したわけは、この未曽有の大戦において、自国の犠牲をなるべく小さく抑えたいと言う、利己的ではあるが、国家意思としては当然ともいえる思惑に動かされていたためである。そうした国家意思は、国際法の理念に優越していたわけだ。国際法は、戦争による領土拡大を禁じているが、そうした国際法の理念も、国際社会の一致した行動によって、はじめて有効になる。国際社会が、それぞれの国家のエゴに分裂していては、国際法は絵に描いたモチにすぎない。そういう不都合な事態が、第二次世界大戦後の国際社会には成立していたわけだ。こういう流れの中では、不可侵条約で結ばれていた日本に対して、ソ連が一方的に侵略を行った不法行為も、批判されることがない。日本はひどいことをしたのだから、多少ひどい目に合わされるのは、あたり前だといった、ニヒルな見方が席巻していたのである。





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