雨あがる:小泉堯史

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小泉堯史の2000年公開の映画「雨あがる」は、黒澤明が脚本を書いた。だから黒澤らしい雰囲気を感じるところがある。この映画は、安宿にしけこんだ貧しい庶民たちの生きざまを描いているのだが、その描き方に黒澤の作品「どん底」や「ドデスカデン」と共通するところがある。もっとも、こちらの方は、筋立てや人間描写に緊張感がなく、全体に緩いという印象を受ける。主演の寺尾聡とその妻宮崎美子が、どちらも茫洋とした感じで、いまひとつ締まりがないこともあるからだろう。

とはいえこの映画は、一人の剣豪の話なのである。寺尾聡演じるその剣豪は、腕は滅法強いのだが、世渡りが下手なおかげで、仕官が続かない。それでも武士のメンツにこだわって、どこかに適当な仕官先はないかと、日本中を歩き回っている。その放浪の旅に妻の宮崎がかいがいしく従い、夫の立身への夢をかなえてやりたいと願うのだ。

そんな放浪の旅の途中で、長雨で増水した川が渡れないので、川岸近くにある安宿に滞在し、雨があがって川が渡れるようになるのを待つ。映画は、そんな彼らが安宿で遭遇した人々との暖かい人間関係やら、寺尾をめぐるさまざまな出来事を描く。この映画は、その寺尾の占める割合が非常に大きいので、「どん底」とは違って、安宿の宿泊人の人間模様がきめ細かく描かれるといよりは、寺尾の武士としてのこだわりを描くことに注力している。

寺尾の武士としてのこだわりはいろいろな事件を引き起こすのだが、その事件での寺尾の活躍ぶりが、土地の領主によって認められ、藩の剣術指南にならないかと勧誘される。喜び勇んだ寺尾だが、無条件というわけにはいかず、領主の臨んだ御前試合で、腕前の披露を求められる。腕に自身のある寺尾のこと、次々と相手を組み伏せたはいいが、対戦を望んだ領主を相手に散々な目にあわせ、あまつさえ池に放り込んだ上に、大丈夫ですかと心配する様子を見せる。それが勝ち誇ったものの傲慢だと受け取った領主はすっかり腹をたて、仕官話は危殆に瀕する。

これだけでも不始末だが、これに加えて、寺尾が土地の剣術家たちとかけ試合をしていたことが露見し、かけ試合を法度としていた藩としては、とても黙認することができないので、この話はなかったことにしていただきたいと、家老から申し付けられる。それを夫の横で聞いていた妻は、たしかにかけ試合は良くないことですが、場合によってはしなければならないこともあります。それ故、何をしたかではなく、何のためにしたかを基準にして考えて欲しいと。

妻の言い分を聞かされた領主は、それにも一理あると悟り、もともと寺尾が気に入っていたこともあり、特別に許すことにする。しかし当の寺尾夫妻は、家老からの申し渡しを聞いて気持ちがさっぱりし、雨があがって晴れ渡った空の下を、次の土地へと向けて、なかば当てのない旅を続けるのである。その彼らを領主たちの一行が馬で追いかけるが、その結果については触れないまま、映画は終る。

寺尾と宮崎の演技が、いまひとつ締まりがないと書いたが、実際寺尾は素顔からして締まりがない感じのうえに、挙動まで締まりなく描かれ、これでも剣豪かと疑われるほどだ。それに対して宮崎のほうは、締まりがないというよりも愛嬌が豊かだといったほうがよいかもしれない。愛嬌がありすぎると、えてして締まりがないと見られるものだ。





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