英語民間試験見送りに思うこと

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2020年度から実施されるはずだった英語民間試験が土壇場で見送りとなった。土壇場というのも、申し込み受付手続きが始まる当日に発表されたということだから、その唐突ぶりは否めない。この事態の背景には、某現職文科大臣の、いわゆる「身の丈」発言があった。この発言が、図らずも当該制度の持つ矛盾点をあぶり出す形になり、それを国民の多くが知るに至り、このまま実施を強行しては、重大な反発を招きかねないとの、安倍政権の危機意識が働いた結果、今回の決定となったものだ。とすれば、某文科大臣は、皮肉めいた言い方をすれば、重大な問題をはらむ制度について、考え直すきっかけを作ったということになる。

実際、この制度は、小生のようなものにとっても、問題だらけに見える。今回広く指摘された受験機会の格差問題のほか、公正という面でも欠陥がある。その欠陥は、文科省がこれを民間受験産業に丸投げし、主体的な調整をほとんどとってこなかったことにもとづく。なんでこんな無責任ぶりが通って来たのか、それを明らかにしないことには、将来に向けての望ましい制度設計につながるはずがない。

文科省は、2024年まで先送りして、それまでの間に問題点を整理し、望ましい試験のあり方を確立したうえで、あらためて英語民間試験を実施したいと言っているようだが、小生はなにも、民間試験にこだわる必要はないと考えている。文科省は、民間試験を実施する理由として、英語をしゃべる能力を測るには、民間受験産業の助けを借りないとできないという事情をあげているが、それは工夫次第だろう。それに、なにも英語をしゃべる能力を、大学入学の条件に加えなくともよいように思う。大学入学試験というものは、学力を測るのが目的なのだから、それは別の部分で十分に測れるはずだ。

安倍政権のアメリカ好きは国民周知のことだが、そのアメリカ好きが、国民全体に英語を話させるというような方向にまで突っ走っているわけだ。日本人はこんなに英語が流暢ですから、どうか仲のよいお友達になってください、と願っているのかもしれない。

それにしても文科省の不始末ぶりは噴飯ものだ。文科省といえば、大学教育の劣化を進めていると批判を浴びているし、どうも未来についての展望が根本的に欠けているのではないか。だから基礎学力よりも、英語を話す能力に執着するようなことになるわけである。また、民間試験にこだわっているのは、受験産業をもうけさせてやりたいとの思惑からではないかと勘繰りたくもなる。文科省は、天下り先が少ないといわれる。そこで受験産業に恩を売って、天下り先を確保したいというのが本音なのではないか。どうもそんなふうに勘ぐってしまうところだ。





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