絞殺:新藤兼人

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新藤兼人の1979年の映画「絞殺」は、その前々年に実際に起きた事件に触発されたものである。その事件とは、高校生が父親に絞殺されるというものだったが、その高校生が進学校として有名な開成高校の生徒だったことで、世間の注目を浴びた。高校生が父親に絞殺されたのは、愛していた同級生の女子が、義理の父親からたびたび強姦されたあげく自殺したことにショックをうけて、世の中の大人たちを強く憎み、その憎しみが両親に対する八つ当たりとなって、家庭内暴力を振るうことになったことで、その暴力に耐えられなくなった父親が、息子が寝ているところを、締め殺してしまったのである。

新藤は、二つの点に焦点を当ててこの事件を解釈している。一つは、高校生は何故家庭内暴力を振るうにいたったかという点、もう一つは、息子を殺したいという夫の意思に従って絞殺を見過ごしたが、よくよく思い返せば、息子にも深い悩みがあったことがわかり、そんな息子を支えてやることができずに、かえって殺してしまったことに痛恨を感じる母親の気持である。

息子は両親の自慢のたねで、両親の期待を背負っていることを自覚していた。学校は進学校ということもあり、気のおける友人はいない。そんななかで一人の少女に恋愛感情を持つのだが、その少女は、母親の再婚相手としての義理の父親からひどい性的虐待を受けていた。その虐待の場面を少年は目撃したりもするのだ。

そうこうしているうちに、少女から、旅への誘いを受ける。蓼科であった二人は、雪の中でセックスしたりするのだが、一人蓼科に残った少女は、遺書を残して自殺してしまう。その遺書には、義理の父親への糾弾の言葉が記されていた。遺書は又、少年宛の手紙という形でもあって、そこには自分が何故自殺を選ばざるをえなかったか、切ない気持ちが記されていた。

少女の自殺にショックを受けた少年は、少女の義理の父親を憎むばかりか、少女を守ることをしなかった世間を深く憎む。その世間には、自分自身の両親も含まれるのだ。特に父親は、自分自身無能なくせして、弱い者には抑圧的に振る舞う。そういう態度が少年には我慢できない。母親にしても、父親のいうことを無自覚に聞いているだけで、毎夜セックスの相手をするほか能がない。そんな母親を含めて、両親が世間を象徴する存在となって、その両親に少年の暴力が向けられるのだ。つい最近まで行儀のよかった息子が急に暴力を振るうようになって動転した父親は、ただその暴力を逃れたい一心で息子を殺す決意をするのである。

息子を殺してしまった母親は、なぜ息子が暴力を振るうようになったのか、その動機を確かめる過程で、息子の恋愛と、恋愛相手の少女の自殺のいきさつを知り、もっとほかに自分たちのやるべきことがあったのではないかとの後悔に陥る。夫は執行猶予付判決を受けて家に帰って来るが、その夫が許せない気持ちになる。夫はあいかわらずセックスを求めてくるが、応える気にはならない。息子のことを考えると気もそぞろになる。その息子を返しないさいと夫に迫ったりするのだ。

結局、母親は首をくくって自殺してしまい、父親が一人取り残される。そんなわけで実に暗い印象の映画である。

この他にも新藤は、様々なメッセージをこの映画に込めている。進学校の味気無さに対する批判は、この事件に学校は一切かかわりがないと強弁させるところに伺われる。この学校は世間的には評価が高いが、その評価は有名大学への進学率が高いことに基づいており、ほかのなにものでもない。学校自体、ここは予備校なのだといってはばからないのだ。

弱い者いじめということに関しては、父親が従業員に対してとる態度に露骨にあらわれている。相手が自分より弱いと、とことんいじめてやろうという情けない根性がはびこっていることに、新藤は少年の言葉を介して言及しているわけだ。







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