パイドロス読解その三

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ソクラテスにせきたてられる形でパイドロスは、上着の下から書物を取り出して、それを読み始める。ソクラテスは草むらに横になってそれを聞くのだ。ソクラテスに限らず、横たわりながら人の話を聞くのは、ギリシャ人が好んだことのようだ。前にも触れたとおり「饗宴」のなかにもそうした光景が描かれていた。

パイドロスが読んだ書物はリュシアスの手になるもので、恋について書かれてあった。恋というと、我々現代人にとっては、男女間の異性愛が思い浮かぶが、ここで取り上げられている恋とは、男同士の同性愛である。それも、成熟した男が、未熟な少年を相手にする少年愛といわれる同性愛がテーマである。ギリシャ人の間ではこうした少年愛が流行っていたらしく、「饗宴」においても、男女間の性愛よりも純粋な恋愛として取り扱われている。ソクラテス自身も同性愛の傾向をもっていたのであるし、またプラトンの同性愛も有名なところである。これは余談だが、プラトンは女性同士の同性愛についても寛容だったようで、かのサッフォーに声援を贈っている。サッフォーはレズビアンの元祖と言われる女性詩人だ。

さて、リュシアスの書物は次のように始まっている。「ぼくに関する事柄については、君は承知しているし、また、このことが実現したならば、それはぼくたちの身のためになることだという、ぼくの考えも君に話した。さて、ぼくは君を恋しているものではないが、しかし、ぼくの願いがそのためにしりぞけられるということは、あってはならぬと思う。その理由はこうだ」

これは書物の書き出しとして奇妙な表現だ。リュシアスが言っていることは、自分と君、つまりパイドロスとの間ではある事柄について意見の一致がある、それはぼくが君を恋してはいないにかかわらず、君から愛される理由はあるということだが、ついてはその理由を詳しく述べよう、というような意味のことだ。そうした意味あいは、後のところで補強的に説明される。「君は、君を恋する者の言うことに従うよりも、ぼくの言うことに従うほうが、すぐれた人間になるはずである」というもので、つまり、自分リュシアスは君パイドロスを恋してはいないが、君はぼくを愛するべきなのだと言っているわけである。そう言ったうえでリュシアスは、その理由を長々と述べたてるのである。

これは議論の結論を予め言っておいて、後にその理由付けをするというもので、裁判の判決などでよく見られるやり方だ。裁判以外にも、レトリックのひとつのスタイルとして用いられることが多い。しかしそれは、あくまでもレトリックの話であって、厳密な意味での論証とはいえない。論証というのは、最後に結論を出すものなのだ。ところがリュシアスは、それとは反対に最初に結論めいた主張をしている。これは、論証ではなく、レトリックであって、つまりは弁論術の一つのテクニックなのだということを、言外に明かしているように見えるのである。

ともあれ、リュシアスが結論的に主張する意見とは、自分を恋しているものに愛されるよりは、自分を恋していない者に愛されるほうが良いというものだ。その理由をリュシアスは、次々と畳みかけるように述べていく。

第一に、「恋をしている人たちというものは、ひとたび欲望がさめたのちには、相手にいろいろとよくしてやったその親切を、後悔するものだが、これに反して、恋をしていない人々には、後悔しなければならないような時など、決してあり得ないのだ。なぜなら、そういう人が相手によくしてやるのは、恋の力に強制されるのではなく、自らの自由な意思によって行う」のだからだ。

第二に、恋する人は自分が相手に与えたものと、相手が自分に与えたものとを比較してとかく打算的に振る舞うものだが、恋していないものにはそのような打算は無用である。

第三に、恋する人々は、相手を誰よりも大事にするというのだから、もしも彼らに新しい恋人ができた場合、今の相手より、その新しい相手のほうを大事にするに違いない。そんな相手に、「かくも貴重なものをささげなければならない理由が、どこにあろうか」。実際恋する人々は、「自分が正気であるというよりもむしろ病気の状態にあることを認めている」のだ。そんな相手に「かくも貴重なもの」つまり童貞を捧げるのは割にあわない。それに対して恋していない人には、そのようなおそれはない。

第四に、「君が最もすぐれた人物を選ぶのに、もし君を恋している人たちの中から選ぶとすれば、君の選択の範囲は、少数の者に限られることになるだろう。これに対して、その他の一般の人々の中から、いちばん君のためになる人を選ぶとすれば、君は多数の者の中から選ぶことになるだろう。したがって、その多数の者の中にこそ、君の愛情に値する人物が見出される公算は、はるかに大きいのである」

第五に、愛する人との関係は、世間に向ってオオッピラゲにするものではないが、しかし自分を恋する人は、その気持ちの高まりのままに、自分との関係を世間に向って言いふらすものだ。その結果、世間からは好ましくない噂を立てられたりもする。実際、君がその恋人と一緒にいて満足そうな表情をしていれば、人々は、君たちが恋の欲望を遂げたものと推測したりもするだろう。それに対して、「恋していない人たちならば、自分自身を制御することができるから」、そのような事態を避けるだろう。

第六に、恋する人々は、嫉妬深くて、君を独占したがるものだ。その結果君は、恋する人以外の優れた人々との交際を阻まれることとなり、有意義な友人を失うことともなる。それに対して恋していない人々は、「君と交わる人々を嫉妬するようなことはなく、かえって、君と交わろうとしない人々のほうを憎むだろう」

第七に、恋している人々は、まずなによりも相手の肉体を欲しがるものだ。それに対して恋していない人々は、「すでにその前からも互いに親しい関係にありながら、そういった思いを遂げるのであって、相手から歓楽を与えられたとしても、それらのたのしみが彼らの愛情を減退させる道理はなく、むしろそれは、将来を約束する記念として心に残るのみであろう」。ここで肉体といい、歓楽といっているのは、男性間の性行為をさすのはいうまでもない。

第八に、これは今までのような一般論とは違って、リュシアスとパイドロスの関係について引き合いに出しながら、述べている。その趣旨は、恋する人々は欲望のために心の眼が曇らされているので、その行為は信頼できない。したがってこのような連中は、気の毒な人間と思うべきなのであって、そんな人々ではなく、ぼくの言うことに従うのが君パイドロスにとってはよいことなのだ、というものだ。

第九は、愛情というものは、人が恋するのでなければ生まれないのではないかという疑問に答えている。その疑問については、リュシアスは、父母や信ずべき友への愛情を持ち出し、そうした愛情は恋愛的な欲望に基づくものではないのだから、それと同じように恋していなくとも、強い愛情は成立するものなのだと反論する。

こうした根拠を一通り示した後でリュシアスは、パイドロスに向って、君を恋している人ではなく、恋していない人々に自分の身をまかせるように忠告するわけなのだ。そこからは、リュシアスがパイドロスの肉体を目当てにしているということも伝わってくるようである。さればこそソクラテスは、即座に反発したわけであろう。ソクラテスにとっては、リュシアスは恋敵に見えたのだろうと思う。






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