桜を見る会と日本のメディア

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桜を見る会をめぐる一連の騒ぎは、この国の政治の劣化を改めて国民に見せつけた。多くの国民は、モリカケ問題がよりスケールを大きくして再現され、しかもよりたちの悪いものになっていることに、ある種の既視感を以て接したのではないか。色々な人がこの問題を論じており、論点は出尽くしたといってよいほどなので、小生が付け加えることはないが、この問題を日本のメディアのあり方に結びつけて論じているものに強い印象を持ったので、それを紹介しておきたい。

雑誌「世界」最新号(2020年1月号)の「メディア批評」が、この問題を日本のメディアと絡めながら論じている。この問題を取り上げたのは共産党だったわけだが、その共産党のやり方というのは、メディアが本来やるべき調査報道の王道にしたがったものだったと論者は言う。共産党にそれを可能にしたのは、ネットの発達だった、ネット上の情報を丁寧に集め、それを結びつけることで、事態の全容が浮かび上がって来たというのである。そういう手法を共産党がやって、本来やるべきメディアがやらなかったのは、メディアに追求する意志が欠けていたからだ、と論者は批判する。

いままでなら、共産党の言い出したことは、メディアは大きく取り上げなかった。実際今回も、最初はほとんどのメディアが無視した。朝日でさえベタ記事扱いだった。ところがネットで騒がれるようになると、それをテレビのワイドショーが取り上げるようになり、新聞も無視できなくなった。そういう連鎖が働いて、一連の騒ぎに発展したわけだ。

この騒ぎから論者が結論したことは、自民党幹部の言い方を用いていえば、「世論とはかつては新聞の社説を意味したが、今はネットとワイドショー」だということである。つまりネットが世論形成に強大な影響力を持つにいたったということだ。共産党はそうした傾向に今回は乗ったわけだが、新聞はますますその存在意義を失いつつあるということだろう。

メディアが存在意義を失うについては、メディア自身にも責任がある、とこの文章からは伝わって来る。権力との緊張関係がほとんどなく、権力の言うことをオウム返しに国民に伝えることを以て自分の役割と考えている記者が非常に多い。そういうことでは、真に批判的な記事など書けようもない。それ以前に、メディアとしての役割を自主的に放棄しているようなものだ。

この論者はまた、ラサール石井のツイッターを取りあげている。政府が苦しくなると、芸能人が逮捕されるという内容のこのツイッターは、鳩山元首相も取り上げて、党派的な敵意に曝されもしたが、論者はこれを、「大手メディアではできない問題提起が、ネットと個人によってなされる」と言って、肯定的に評価している。





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