パイドロス読解その十一

| コメント(0)
弁論術の技術的な部分についてソクラテスは、弁論家たちによるさまざまな技法を紹介する一方、自分自身の見解も打ち出す。それには、大きくわけて二つのものがあった。一つはディアレクティケーと総称されるようになる(二つの種類の)手続きであり、もう一つは魂の導き方についての技術である。

ディアレクティケーは、今日弁証法と呼ばれているものの最初の哲学的な提起であると考えてよい。弁証法は、哲学上の概念として、とくにヘーゲル以降重要な役割を果たしたわけだが、その萌芽的な形はソクラテスによって持ち出されたということになっている。ソクラテスの弁証法は、否定を通じてより高い認識をめざすということに最も大きな意義を有していたわけだが、そのほかにも人間の認識にかかわるさまざまな技法を含んでいた。ソクラテスが「パイドロス」で披露するのは、「分割と総合」と呼ばれる二つの手続きである。

まず総合について。これは「多様でちらばっているものを総観して、これをただ一つの本質的な相へとまとめること」である。そうすることで、「ひとがそれぞれの場合に教えようと思うものを、ひとつひとつ定義して、そのものを明白にするのに役立つ。たとえば、さっきぼくたちは、エロースについて語るのに、まずエロースとはなんであるかについて定義したのであるが、あのエロースについての話がうまかったかまずかったかは別として、少なくとも、この手続きのおかげで、あの話は明確で首尾一貫したことを語ることができたのだ」

ソクラテスが総合について語っていることはこれだけなのであるが、言いたいことは、雑多な現象を通じて不変のものを、そのものの本質として導き出し、その本質的なものを以て、対象となる事物の定義にしたいということのようである。これは弁証法的な思考の最大の特徴となるものだが、ソクラテスはここでは、とりあえずそれをさらりと提起するにとどめている。

次に分割について。これは、ひとつの事柄をさまざまなものに分割することである。ソクラテスはその分割の例として狂気をあげ、狂気というひとつの事柄にも、神的な狂気と人間的な狂気があり、それにともなって、恋にも神的な恋と人間的な恋があると言うのである。これは、共通のカテゴリーを前提にして、種差によって分類していこうというものであるが、総合とはちょうど逆の相にある。総合が雑多なものから一つの本質的なものを導き出すとすれば、分割はその一つの本質的なものから雑多なものを導き出すわけである。弁証法の言葉では、総合のプロセスを上向法と呼び、分割のプロセスを下向法と呼んでいる。

ともあれソクラテスは、この分割と総合の一組の手続きが、弁論はもちろんさまざまな知の働きにも適用できると考え、その方法を「恋人のように大切にしている」のだと言う。そしてその方法を身に着けた人を、「ディアレクティケーを身に着けた者」と呼ぶのだと言うのである。

魂の導き方についての議論を、ソクラテスは次のように始める。「技術のあり方としては、医術と弁論術とは、なにか同じ事情にあるようだ」と。医術は身体に働きかけて健康と体力をつくるように導くのに対して、弁論術は魂に働きかけて、こちらが望むような確信と徳性とに導くというのである。したがって、こういう仕事をうまくこなすためには、医者の場合には身体の本性を、弁論術の場合には魂の本性を、分析しなければならない、そう言ってソクラテスは、魂についての議論に入っていくのである。

魂についての議論に入る前に、そもそも議論をする際の心得のようなものに、ソクラテスは注意をうながす。それは、「その対象が、単一なものか、それとも多種類のものかを調べること、つぎに、もしその対象が単一のものなら、そのものが持っている機能を調べてみること。すなわち、それは本来、能動的には何に対してどのような作用を与え、受動的には何からどのような作用を受け取るような性質のものであるかを、調べるのである。またもし、その対象が多種類のものならば、その種類を数え上げ、しかるのち、そのひとつひとつの種類について、単一な種類の場合にやったのと同じことを、つまり、それが本来何によってどのような作用を与え、あるいは何からどのような作用を受けるような性質のものかを、見なければならない」

ソクラテスがここで言っていることは興味深い。ある対象の本質を、そのもの自体の内部に求めるのではなく、他のものとの比較によって導きだすというやり方は、あるものの定義と言い換えてもよい。定義とは、カテゴリーを共有するもの同士を、種差によって弁別することを言う。それによって、ある事柄は、過不足なく定義されるということに、現代の科学的な方法論においては、なっている。ソクラテスは、その科学的な方法論を、すでに十分に自覚していたということができそうである。

ともあれ、その方法論を魂にあてはめると、次のようになる。「まず第一に魂というものについて、それが本来、一つの相似た性格のものしかないものなのか、それとも、からだの恰好と同じように、多くの種類があるものなのか・・・第二に、魂とは本来、何によってどのような作用をあたえ、あるいは何からどのような作用を受けるものかということ・・・第三には、さまざまの話し方の種類と魂の種類、ならびに、それらの様々な反応の仕方を分類整した上で、その原因をくわしく論じるだろう。すなわち、そのやり方は、ひとつひとつの話し方をひとつひとつの魂の型にあてはめ、魂がどのような性質のものである場合には、どのような話し方により、いかなる原因によって、かならず説得されたり、説得されなかったりするか、ということを教えるのである」

こう整理した上でソクラテスは、「そもそも言論というものがもっている機能は、魂を説得によって導くことにあるのだから、弁論術を身に着けようとする者は、魂にどれだけの種類の型があるかを、かならず知らなければならない」と言い、どのような性質の魂が、どのような性質の話によって説得されやすいか、それを見分けることが肝心だと言うのである。そうなって初めて、「その人の(弁論の)技術はりっぱにかつ完全に仕上げられたことになるのであって、それまでは否である」

要するに弁論の技術とは、相手の性質をよく見定めたうえで、それにふさわしい話によって相手を説得することが肝要なのである。相手の性質とうまくかみあわない話をしても、相手は反発することはあっても、決して説得されはしないだろう。

ソクラテスはまた、次のようにも言って、弁論の技術についての自分の考えを説明する。「ひとは、自分の聴衆となるべき人々のさまざまな性質を数え上げて分類すること、それから、事物を種類ごとに分割するとともに、個々のひとつひとつのものについて、これをただ一つの本質的な相によって包括する能力を養うこと、これだけのことをしないかぎりは、話すことに関して人間に可能なかぎりの技術を身につけるということは、けっしてできないだろう」

ここでソクラテスが言っていることは、人間の性質を見極めるにもディアレクティケーの技術が有効であること、その技術を用いて、説得の相手の性質をよく見極めたうえで、それにふさわしい話を持ち掛けることで、容易に相手を説得できるということである。でなければ、相手を説得できることは出来ない。説得の近道は、相手の性質をきちんと理解することなのである。それを考えずに、自分の思いを一方的にぶつけても、何ら得るところはない。






コメントする

アーカイブ