テアイテトス読解

| コメント(0)
プラトンの対話篇「テアイテトス」は、プラトン中期の作品群の最後近くに位置するものと考えられる。この対話篇はテアイテトスを記念するかたちで書かれているのだが、テアイテトスが死んだのは紀元前369年であり、その年プラトンは60歳近くになっていたのである。また専門家の鑑定によれば、この対話篇の文体はプラトン後期の作品と共通するところが多いという。そんなことからこの作品は、プラトンの著作活動の中期から後期へと移行する過程に位置するものと考えられるのである。

それにしては不可解なところもある。その頃にはプラトンは、「国家編」などイデア論をめぐる著作を書き終えており、思想的には円熟期を迎えていたはずなのだが、この対話篇にはイデア論が言及されて相応しい場所で、イデアという言葉が出てこないばかりか、イデア論を思わせる議論もない。その一方、個別のテーマ、ここでは知識とは何かということだが、そのテーマをめぐっての丁々発止の議論が展開されるところは、初期の対話篇と共通するところがある。そのことをもとにして、この対話篇をもっと古い時期に書かれたとする見方もあったほどである。そういう見方をする人は、この対話篇で、テアイテトスが死んだと明言されていないことを根拠に、史実として明確にわかっているテアイテトスの戦死の年(紀元前369年)より以前に書かれたのではないかと推測している。

この対話編は、エウクレイデスとテルプシオンの対話という枠組みのなかで展開される。この二人はメガらの人で、いわゆるメガラ派の思想に馴染んでいた。メガラ派というのはパルメニデスの流れで、思弁的な傾向の強い思想を展開することを好んだ。自然哲学者たちとは違って、人間の精神の活動を重視したことが、ソクラテスの思想と馴染んだと見えて、ソクラテスはメガラ派の人びとと付き合いが深かった。エウクレイデスもテルプシオンも、ソクラテスの刑死に立ち会ったということが「パイドン」で触れられているから、日頃親しくしていたと思われる。なお、このエウクレイデスは、ユークリッド幾何学の創始者とは別人である。

対話篇のきっかけは、エウクレイデスとテルプシオンがメガラで出会ったこと。メガラはアテネの西方40キロ余りの地点に位置する町で、古来交通の要所として栄えた。アテネ同様、海からやや離れたところに位置し、ニサイヤという外港を擁している。そこでエウクレイデスはテルプシオンに呼びかけられ、対話が始まるわけだが、エウクレイデスはテルプシオンと出会う直前テアイテトスと出会っていた。テアイテトスは瀕死の状態でアテネへ運ばれるところであった。瀕死になった理由は赤痢だとされている。

アテネへ向かうテアイテトスを見送りながら、エウクレイデスはソクラテスのことを思い出す。ソクラテスは、例の裁判に引っ張りだされる直前、テアイテトスと対話をしたことがあったが、その対話の中で見せたテアイテトスの器量にいたく感心し、この男はその時にはまだ少年であったが、大人になったらすばらしい人間になるだろうと予言したそうだ。その対話の内容を、ソクラテスはエウクレイデスに詳しく語ってくれたそうだが、その内容をエウクレイデスはことこまかく記録していた。その記録に興味を覚えたテルプシオンが、是非それを読ませてほしいと懇願すると、エウクレイデスはテルプシオンを自宅に伴いゆき、召使に命じて、その記録を読ませる。その記録の内容というのが、この対話篇の実体をなすものなのである。

こんなわけで、エウクレイデスとテルプシオンの対話は、ほんのきっかけに過ぎず、この対話篇全体の内実は、ソクラテスとテアイテトスの対話なのである。それにテアイテトスの数学の師匠であるテオドロスが加わる。テオドロスは北アフリカのキュレネの人で、数学とくに幾何学に造詣が深かった。テアイテトスは彼に従って幾何学を学び、この対話篇の中でも平方根に関する知識を披露している。なお、この対話篇でソクラテスと対話しているテオドロスは、ソクラテスより高齢のイメージで描かれているが、その際ソクラテスは七十歳ほどだったわけだから、テオドロスはかなりな高齢だったわけである。

ソクラテスがテアイテトスを相手に対話を始めるきっかけは、テオドロスが作ったのだった。テオドロスは、ある時ソクラテスと挨拶をかわしあった際に、弟子のテアイテトスを紹介したのだった。その紹介の仕方が面白い。テオドロスはテアイテトスを、ソクラテスに似て、鼻が上を向き、目は飛び出ているのだが、頭は冴えているというのだ。それを聞いたソクラテスは、気分を害するどころか、そんなに頭が冴えた少年なら、是非その頭のよさを検分してみたいという。そのようにしてソクラテスとテアイテトスの対話が始まるのである。

対話の詳細は逐次追っていくつもりだが、その前に全体的な流れについてざっと紹介しておきたい。この対話篇の内容は、副題(あるいは知識について)にもあるとおり、知識とはなにかをめぐる議論である。ソクラテスが例の通り、年少の相手に向かって課題を投げ与える。ここの場合には、「知識とは何か」である。それに対してテアイテトスが答え、それにソクラテスが反論して、議論を弁証法的に深めていくというのは、ほかの対話篇特に初期の対話篇と共通するところである。この対話篇の特に際立っている点は、二つばかりあげられる。ひとつは、テアイテトスの出す答えが複数であるということだ。テアイテトスは、ソクラテスの問いに応えて三つの答えを出す。知識とは感覚のことである、知識とは思いなしである、知識とは思いなしに言論が付加されたものである、というのがその三つの回答の内容である。

それに対してソクラテスは、一々反論するのだが、その反論を通じてなにか結論めいたものが出て来るのかといえば、そうでもない。知識とは何でないか、ということばかり語られて、知識とは何か、については正面から語られることがない。そこが二つ目の際立った点である。プラトンの対話編は、だいたいにおいて、問いに対する答えが用意されているものなのだが、この対話篇に限っては、それがかならずしも用意されていない。しかもそのことにソクラテスは大した疑問を感じている様子がない。どうもこの対話篇の中のソクラテスは、議論そのものを楽しむことに甘んじて、その果実にこだわるようには見えないのである。

この対話篇のなかでは、例の有名な産婆論が展開される。自分自身は生むべきものを何も持ってはおらず、人が懐胎しているものを出産させるのが自分の役割だと強調しているのだが、どうもテアイテトスには出産すべきものがないとソクラテスは判断したかのようなのだ。それには、テアイテトスはまだ若すぎるということもあっただろうし、また、知識とはなんであるか、を論じるにはもっと時間を要すると考えたのかもしれない。だが、知識とはなんであるか、という問いは、そんなに複雑なものであろうか。ソクラテスはともかく、プラトンについていえば、この対話篇を書いた時のプラトンはすでに60歳くらいになっており、想起説とかイデア論を確立していた。そんなプラトンなら、知識とは何かについて、スマートな議論を展開するのはむつかしくなかったはずだ。それが中途半端な議論に終わってしまっていることは、多くのプラトン学者を悩ませてきた。先ほど言及した、この対話篇を比較的所期の作品だと位置付ける学者は、この対話篇の持つ未熟とも言うべき面に着目しているのである。

ともあれ、プラトン対話篇読解シリーズの例にならって、以後テクストに従って対話の内容を読み解いていきたい。テクストには田中美智太郎訳の岩波文庫版を用いた。






コメントする

アーカイブ