スピノザ「知性改善論」を読む

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「知性改善論」は、スピノザの遺稿に含まれていたものである。遺稿集の編纂者によれば、この小論は、すでに何年も前に起草されたものであり、著者はその完成に気を使っていたのだが、他の仕事に妨げられて、未完の状態のまま死んでしまった。だがこの未完の小論には、卓越した、また有益な事柄が多く含まれており、真理をひたむきに探究する人にとっては少なからず役立つであろうと思われるので、ここに公開することとした、と編纂者は言っている。ここで編纂者が他の仕事と言っているのは、おそらく「エチカ」のことであろう。「エチカ」もスピノザの生前には公開されることはなかったが、論文としては完成状態にあった。その「エチカ」とこの小論「知性改善論」は、全く関係がないわけではない。むしろ深い関係にあるといってよい。それは、この「知性改善論」が、「エチカ」にとって緒論に相当するような関係と考えてよい。スピノザは、「知性改善論」で、学問の方法について論じたあとで、その方法を適用して「エチカ」を論述するというような流れを思い描いていたのではないか。しかし色々な事情に妨げられて、「知性改善論」を完成させる前に「エチカ」にとりかかり、そちらのほうは、スピノザの短い生涯の間に完成させることができたということなのだろう。

この小論の概要をスピノザは次のように記している。「知性の改善についての、ならびに知性が事物の真の認識にもっともよく導かれるための道について」と。つまり知性を改善することによって、知性が事物の真の認識に導かれるようにすることが、この小論の目的だというわけである。それゆえ目的は、知性が事物の真の認識に導かれることであって、その手段として知性を改善するということになる。この言い方は、よくよく考えると、どうも循環論法のようにも思えるが、しかし問題の焦点が知性であるということは伝わって来る。どちらにしてもこの小論は、知性について論じているわけである。スピノザと言えば、その主著「エチカ」を幾何学的な方法を用いて論述したように、知性を重んじるタイプの思想家であって、同じくデカルトの弟子を自認していながらも、知性よりも感情を重んじたパスカルとは対照的である。感情が赴く先は神秘であったが、知性は合理的な精神を育む。したがってスピノザの思想は、この世界をあくまでも合理的にとらえようとする傾向のもので、「エチカ」で展開されたのは、そのような合理的な世界観だったのである。この「知性改善論」は、そうした合理的な世界観を支える、思考のあり方というか、方法について論述したものだと言える。

この小論の目的は、知性による「事物の真の認識」だと言ったが、それが具体的に何を意味するのか、スピノザは本論の冒頭に近い部分で明らかにしている。人は人生において追求すべき最高善として、次の三つのもの、すなわち富と名誉と快楽をあげるが、よく考えるとこれらは、最高善と呼ぶには値しない。我々は、「その本性上不確かであるところの善を、その本性上不確かではなく、ただその取得に関してのみ不確かな善のために」捨てるべきなのである。ここで「本性上不確かであるところの善」とは以上の三つの善であり、「本性上不確かではなく、ただその取得に関してのみ不確かな善」とは、真の意味での最高善ということになる。では、その最高善とはどのようなものか。

スピノザは、善とか悪とかはただ相対的な仕方で語られるだけであり、したがって、同一のものであっても、観点が異なれば、それに応じて善とも悪ともいわれうる、と念を押したうえで、最高善について、次のように定義する。

最高善とは、自分自身にとって最高の善であるとともに、他の人びととも共有できるものでなければならない。そのような意味での最高善をスピノザは、「精神と自然との合一の認識」であるという。その詳細は追って詳しく説明すると言いながらスピノザは、とりあえずはこの最高善の達成に向けて努力すべき事柄とか、条件とかについて論述するのであるが、そのなかでも最も肝心なのは、善の達成に向けて、どのように知性を用いたらよいかを明らかに知ることだとしている。知性の用い方を知ることが、そのまま知性の改善につながる。そこからこの小論が「知性改善論」と名づけられたわけである。

知性改善はどのように進められねばならないか、スピノザはそれを四つにわけて論述している。それを概説した当該部分の文章をそのまま引用しておこう。
「第一には、真の観念をその他のすべての知覚(観念)から区別し、精神をその他の知覚から護ること。
第二には、未知の事物がこの規範に則って知覚されるように規則を敷くこと。
第三に(そして最後に)は、われわれが無用のものごとで理解することのないように秩序を確立すること、である。この方法を知ったのちにわれわれは、
第四に、この方法がもっとも完全なものとなるのは、われわれがもっとも完全な有の観念をもつに至った場合であること、を見た。だから最初にあって、できるだけすみやかにこの有の認識に到達するように、特に心がけねばならない」

知性完全論の大部分は、以上四つのものの論述に費やされることになっていたようだが、そのうち実際に論述されたのは、第一のものと、第二のものの一部である。第一のものをめぐっての論述は、真の観念と偽の観念との区別についてである。偽の観念をことさらに論じるのは、われわれがえてして、偽の観念を真の観念と取り違えるからであり、真の観念にもとづいて正しい思惟をするためには、偽の観念に惑わされることがないように知性を訓練しておく必要があるという考慮による。

第二のものについては、真の観念とはどういうものか、についてもっぱら論述される。だが、この部分は完成されておらず、この部分も含めて、スピノザが上述した構想に従ってどのような全体像を描きだそうとしていたのか、それは憶測するほかはない。だがスピノザが最終的に目指していたのは、「有」という言葉で表されるような、存在の秩序であったと思われる。もしそうだとしたら、主著の「エチカ」が、それを代替した形で表現しているので、スピノザがこの小論で何を最終的に主張したかったか、およその見当はつく。

以下、「知性改善論」の論旨を、テクストにしたがって読み進んでいきたいと思う。テクストには森啓訳を用いた(本稿での引用も同様である)。







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