君はいい子:呉美穂

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呉美穂の2015年の映画「君はいい子」は、親による子どもの虐待とか、学校現場における子どもたちの間のいじめとか、学級崩壊などをテーマにした作品である。親による子どもの虐待をテーマにした映画としては、松本清張の小説を映画化した「鬼畜」が古典的な作品として想起されるが、野村芳太郎の作った「鬼畜」は、妾が育児放棄した子供たちを本妻が虐待するというもので、いささか古風な時代設定だった。それに対して呉美穂が作ったこの「君はいい子」は、実の母親による子どもの虐待がテーマであり、そこに時代の変化を感じさせる。実の親による子どもの虐待は、いまでも報道を賑わせているように、極めて現代的なテーマであり続けている。

子どもに虐待を繰り返す親をよく観察すると、その親自体が子どもの頃に虐待を受けていたことが浮かび上がってくるという。つまり、虐待はある種の精神的な遺伝として、親から子へ受け継がれるというのである。この映画の中の母親も、やはり子どもの頃に親から虐待されたことがあり、その虐待の傷跡がいまでも残っている。この母親は、自分自身も子に向って虐待を続けるのだが、いったん虐待の衝動に駆られると、それを自制することができない。そんな親を、子どものほうではなんかと受け入れようとするのだが、いつまた暴力を振るわれるかが不安で、心から母親を受け入れることができない。そんな悲しい母子関係が、この映画ではドライなタッチで描かれる。この映画を見ると、現代社会の病理のようなものを思い知らされて、心が暗鬱になる。実際、この映画と異ならぬ風景が、いまでも日本の各地で見られるのだ。

一方、学校現場での子供の間のいじめは、学級崩壊とセットになっている。この映画の中では、授業中に失禁した子どもがいじめの対象になりかけて、それを阻止しようとした教師が、かえって他の子どもたちから依怙贔屓をしていると受けとられ、ことあるごとに反抗されたあげく、学級崩壊に陥っていく。いじめと学級崩壊とは近接した現象ともいわれるが、かならずしも同時に起こるのではない。この映画では、両者が同時に起こったことの背景に、教師と子どもたちとの断絶があるというふうに示唆されている。

この教師の教室には、親からネグレクトされている子どもも出て来る。この子どもは他の子供より体格が小さいが、それは親からろくに食べさせてもらってないことの結果だ。その実情を教師が確かめようとすると、義理の父親というのが出て来て、拒絶的な対応をしたあげく、教師に告げ口したとして子供を折檻する。結局この子どもは、この義理の父親によってひどい目にあわされると観客に予感させて映画は終るのであるが、それを見た観客は、昨今日本中で流行している子どものいじめやネグレクトの背景に、こどもを抱えた母親が、子どもよりも男のほうに気をくばって、結果として自分の子どもをネグレクトしたり、虐待したりしている現実を思い知らされるのである。

呉美穂は、前作の「そこのみにて光輝く」では、未来への希望を持てない男女を描いたが、そうした希望のない人生がいまの日本では蔓延している、そしてそこには、日本社会の内部に、深刻な断絶とそれにともなう格差が進行しているといったメッセージを発していたわけだが、この映画では、そうした希望のない社会のあり方が子どもたちをもむしばんでいる、という一歩進んだメッセージを送っているように思われる。呉美穂は在日韓国人であるが、映画のなかでは、日本における在日差別を表面的にはとりあげていない。しかし、希望のない人生とか、子どもの虐待とかを描くことを通じて、日本社会が抱えている病理をあぶりだそうとする意欲をもっていることは感じさせる。そうした病理には、在日差別にも通じるものがあるのである。





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